人魚姫4
第三庭園で別れた侍女さんたちに手を振ってから私は設置されていたベンチにちょこんと座った。
ざざあんとさざめく波の音がさっきからイチルの鼓膜を揺らしていた。すんすんと鼻をひくつかせると花の甘い匂いの中に潮の香りを嗅ぎ取る。
「さきにうみにいっててもいいかな」
ヒマでヒマでしょうがないのだ。ぴょんっとベンチから飛び降りて音がする方に足を向けた。砂利道を進む。この第三庭園は他の庭園と違って地面は剥き出しのままだった。
王城の庭園なのに何だか安っちいなと思っていたけど、レンガを敷き詰めるなどの舗装をしないからこそ自然そのものを味わうことができるし、そもそも第三庭園は大自然をテーマにしているからこれで良いらしい。
庭師のおじさんがそう言ってたのだ。とはいえ、イチルはこういう素朴な感じを大層気にいっていた。そして、木々の間の小道を通り抜けると視界一面に海が飛び込んでくるのも大好きだった。
さんさんと照りつける太陽をキラキラと反射して輝く海は、それはもうイチルの琴線に触れたのだ。
木々の緑のドームを通り抜けた先にある白い大理石のなだらかな階段を一段一段下りていく。この階段は最後の方で二股に別れており砂浜と海の両方に繋がっていた。
前ここへとサーシャリオンと共に散歩している途中、「この階段は海と陸を繋げる架け橋なんだよ」と眩しい笑みを浮かべて教えてくれた。
「この国にとって海は要なんだ。海と民と土地。この三つで国が成り立ってるから」
イチルにはまだ難しかったかなと笑いながら伸ばされた手を彼女は確かにとった。
「わたしはたしかに見た目は小さいけど、りかい力は大人なのだぞ」
ぷぅと頬を膨らませて、砂浜を蹴り上げる。記憶の中のサーシャリオンはそれでもイチルを子供扱いだ。
「まあ?たしかにぃ、大人になってもボンもキュもボンッもないのだがな!まないたがなんだと言うのだ。まないたはいだいなのだぞっ」
ボディラインの話からなぜだかまな板の話にずれ込んだけれどそのまま地団駄を踏んでいると、後ろで砂利を踏む音がして振り返った。そこにはティルトがタオルを両手に顔を引きつらせていた。いわゆる、どん引きだ。
だがイチルは歯牙にもかけずティルトの仕事の手伝いで珊瑚の欠片をひょいひょい拾いあげていた。
白い砂浜は珊瑚の白さだとサーシャリオンに教えて貰ったがなるほど、確かにそうかもしれないと拾いあげた珊瑚の塊を見て思った。
ざらざらとした感触をころころと指先で転がしてカゴに放り投げたそんな時だった。世間話をしていたティルトが急に尋ねてきたのは。
「イチルもオケアも、ここで拾われたんだよなあ」
「うむ。そうなのだ」
「へへ、なんかあれだよな人魚姫の関係者だったりしたら面白いのにな」
「にんぎょひめ?」
きょとんと首を傾げると、ティルトは少し照れくさそうに視線を彷徨わせてから俯いた。
「人魚姫って人間に捕まらないように海のふっかい所に住んでんだろ?おれたちは人間だから浅いとこまでしか潜れないけど、こんな綺麗な海なんだ、きっと海の底もすっげえ綺麗に決まってる」
俯いていた顔をあげて海へと視線を向けたティルトの頬が少し赤らんでいたけれど、同じようにイチルもきらきら光る海へと視線を向けた。
泳ぐカラフルな魚や白い珊瑚、波に揺れる海藻。
どこまでも透き通った穏やかな海は、改めて眺めると綺麗なものを集めた宝石箱のように見えて、大きくティルトに頷いてみせた。
小さな黄色い魚が珊瑚の隙間から顔をだして海藻をのんびりとつつくと、大きな赤い魚がおんなじように海藻をつついた。大きな赤い魚が近づいてきても、小さな黄色い魚は逃げないどころか一緒になって揺れる海藻をつつく。
魚の住処の珊瑚も、ゆったり揺れる海藻も、穏やかな魚もいるこんなに綺麗で優しい海だ。
「きっとやさしくて、おだやかで、きれいなものがいっぱいあるのだ」
わたしも、みてみたい。自然にイチルの口元にほんのりと笑顔が浮かんだ。その笑みは子どもが浮かべる無邪気で無垢な笑みというよりも、慈しみや愛しさを孕んだ笑み。大人だからこそ浮かべられるそんなもの。
ティルトは思わずぽかんと口を開いて呆然としていたが、すぐさま頭をふって仄かな熱を帯びた頬を冷まさせた。
内心やっべえまじやっべえ!おれロリコンじゃねえのに!!と焦っているティルトにイチルは気がつかない。
なんとか平静を取り戻したティルトはもう一度、先ほどのイチルの言葉を述懐して、また仄かに頬を赤らめて口を開いた。
海の底なんて誰にも分かりゃあしないと小さい頃からバカにされ続けていたけれど。初めて。初めて、認められた気した。
優しくて綺麗で、どこまでも澄んでいるこの海。地上から見てもこんなに心が震えるくらい胸がうたれるんだ。海の底から、眺めたら。
「もっともっと、言葉になんねえくらいに綺麗だと、おれも思うよ」
ノアールの瞳みたいな青空の下、ティルトは小さくはにかんだ。