人魚姫2
ふかふかぬくぬくさらさらふわふわ。
そんな擬音語が見事マッチするものに私は包まれているのを皮膚を通じて感じていた。採れたての綿みたいな、紡ぎたての絹みたいな。蚕は繭のなかこんな心地良さにくるまれているんだろうか。
すんと小さく鼻を鳴らすと太陽のにおいが広がった。きもちいい。なのに、
「あ、起きた?」
「!?」
急に繭が破られてイチルは眼を見開いた。
カッと眼を見開いたイチルに吃驚したのか少年はぎょっと勝気な顔を強張らせて椅子から落ちた。
いッてー!と腰をさすっている。なんなのだ、ここはいったい。さっきまで砂浜で空を見上げていたというのに。
側頭部に手を当ててきょろきょろしているとすかさず少年が転げたまま現状を説明してくれた。若干不機嫌そうに口を尖らせつつだが。
「お前が急に眼ぇ見開くからビビったじゃねぇか!王子もいいかげん犬猫じゃねぇんだから人間拾うのもたいがいにしろっつうの!っ痛ぇえええ!」
「口さがないことをいうんじゃないわい、この悪ガキ」
仕切られたカーテンからのっそりと現れた老人に拳骨を貰った少年は腰の痛みから復活したばかりだっただろうにまた撃沈してしまった。
痛そう。あれ絶対たんこぶができているぞ。
そんなことをぼんやりと思っていると、呻き声をあげつつのたうち回る少年を後目に老人がイチルに手を伸ばした。
咄嗟に眼をつぶろうとしたが、伸ばされた手は酷くゆっくりしていて。
優しく前髪を払われたかと思ったらひんやりと冷たい温度がイチルのおでこに広がった。その冷たい温度で始めてイチルは身体が火照っていることに気がついて差し出されたグラスを受け取って縁に口をつけた。
無味無臭なお水。
くるくると冷たい水が食道を通って胃に落ちていくのがよく分かった。美味しい。
「まだちぃとばかし暑いが安静にしとれば大丈夫じゃろ。おいティルト、嬢ちゃんを呼んでこい」
無心に水をちびちび飲むイチルから未だに伸びている少年に向かって老人が声をかけてるということはきっとティルトとはこの少年のことだろう。ここには私とおじいさんと少年の三人しかいないし。
イチルの予想通り少年は立ち上がった。ぷるぷると拳が震えている。ばっと顔をあげてティルトは老人の白い服を下から掴み上げて吠えた。
「人使い荒いんだよくそジジイ!」
「ふん、そんな糞の弟子であるティルトも充分糞じゃわい!それより早ぅ行かんかっ」
「~~~っ!」
老人の一喝にティルトはぐうっと口を閉ざしてきぃっと睨みつけてくるりと身を翻して仕切りカーテンの外へ出て行った。ずんずんと行き場の失った怒りを宥めようとしたいるのかなんなのかは分からなかったが足音荒く出て行ったティルトに老人は肩をすくめて、倒れた丸椅子を元に戻しそこに腰掛ける。
ぴくんと近すぎる距離に肩をはねさせる。
「そんな緊張せんでええ。儂は医者じゃ」
「・・・おいしゃさん?」
「ああ。王子が海に行ったらお主が行き倒れていたらしくてな。まあ軽い熱中症じゃよ」
そういえば確かにおじいさんの服、お医者さんが着るようなのだ。だからティルトも同じのを着ていたのか。
じろじろと観察して合点がいったイチルはきょとんと傾げていた頭をふむと縦に頷き、伸ばされた掌に空になったグラスを手渡した。
だいぶ身体の火照りが薄まってきたような気がする。身体が軽やかなのだ。イチルの顔色の変化に老人も笑った。
「だいぶ良くなったようじゃな」
「はい。わたしもそうおもいます」
小さいから呂律がうまく回らなくてしたったらずなお礼になってしまって恥ずかしさでイチルは顔を赤らめた。だから、敬語なんて使えないのだぞ。なのだとかの方が言いやすいのだ。
敬語を使うとなんにせよ微笑ましいとかいって笑われるけど!ノアールも別に敬語使わなくていいよって言っていたし。そ、そうだノアール!!
「せんせーはノアール知らない?ちゃぱつできれいな青いめのおとこの人!」
「茶髪で青い瞳?そういう人種は多いからの・・・。父親か?」
「ちちおや・・・」
ただ父親かどうか尋ねただけなのに、うんうんと唸り始めたイチルに老人こと先生は首を傾けた。父親じゃなかったら兄か。
唸り考え込んでいる少女は端からみてもまだ小さい子どもだ。そんな子どもが王家の土地であるあの砂浜まで一人でいけるはずがない。そうするとやはり偶然父が兄と迷い込んでそのまま逸れてしまったのだろうか。
王子の話では周囲に足跡はなくじっとして動かなかったようだし、足跡が風化するまで太陽のもと待ち続けていたらしい。こんな、幼子が、太陽の下で、熱中症になるまで!!なんて健気なんじゃっ。
じわりと老獪な瞳に熱いものがこみ上げ、小さな頭をよしよしと撫でた。どこぞの悪ガキと天と地ほどの差に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいほどだった。だが、イチルに先生の思考など推測さえできるはずもなくじっと先生を見上げた。
もしや恥ずかしくて顔を赤らめたのが心配だったのだろうか。
「せんせー、わたしもう本当にだいじょうぶなのだ」
本当に大丈夫なのになぜか先生は手を止めて逆の手で自分の目蓋を覆った。ほんとにどうした。だれか説明してくれ。
「なにしてんだジジイ。そんな触診みたことねぇぞ、なんだセクハラってやつか?」
しゃっとレールが擦れる音とともにひょっこりと顔を出したティルトに困ったような視線を送ると半眼で先生の腕をどけてくれた。中学生くらいなのにしっかりしている感動した。
「なんじゃティルトもう帰ってきたのかっと、おお嬢ちゃん久しぶりじゃな」
振り返って嬉しそうな声をあげた先生にイチルもその先を見る。白と紺色を基調としたスカートのフリルが揺れて。イチルは瞳を輝かせた。
「び、びじんさんだと・・・!」
ふわふわした長い茶色の髪になだらかな海の色みたいな青い瞳。熟れた桃色のようなふっくらした唇。困ったように下げられた眉すら美しい柳だった。び、びじんだー!!いやむしろ可愛いかもしれないけど。
ぱわんとなったイチルの瞳にはもはやメイドらしき彼女はもこもこの兎にしか映っていなかった。動物園にある触れ合いコーナーの隅で打ち震える兎さん。見上げる瞳は涙で潤み、近寄らないでくれと訴えかけるそんな・・・、
「いいではないか・・・!」
薄らと頬を赤ら熱い吐息とともに吐き出された。幼女に似つかわしくない恍惚な笑みを浮かべたイチルに思わずティルトは危なげななにかを無意識に感じ取った。なんか雰囲気が気持ち悪い。一歩下がる。
だが、師弟関係にある先生がイチルのあの笑顔に一番近いくせに身動ぎすらしなかったのが悔しくてまた一歩進む。一進一退ならぬ一退一進。
自尊心を取り戻しつつあった途中、肩に柔らかな手が柔らかな笑顔とともにティルトに向けられ彼女が横をさっと追い越した。
恍惚としていたイチルがベッドの上から彼女を見上げる。じっと瞳が交錯すること数秒でイチルが首をかしげた。
「なに?」
そう、彼女は一言すら発さなかったからだ。否、
「オケアは話せないんじゃよ」
椅子に座ったままどこか疲れたように先生は言った。静まり返った澱を散らさないようにゆっくりと、掬いあげて。話さないんじゃなくて話せない。なるほどそれなら確かに沈黙のままでもおかしくないのだ。
うんうんと納得するイチルに続けるように先生は付け足した。
「喪失した記憶が甦れば声を出すこともできるじゃろうに。こんな気がきく娘っこなのになあ」
最後の方で声を震わせた先生は思わず顔を覆った。医者だのに救えない、そんなやり切れなさ。歳と共に刻んだ皺だらけの手に柔らかい手が重ねられた。白くてきれいな手。
「悪いなあ嬢ちゃん」
ふるふると首を振る彼女、オケアに先生は眼を細めて立ち上がった。んんん、あれ、記憶喪失なのになんで名前は分かるのだ?
「きおくそうしつなのに、なんで名前はわかるのだ?」
不思議そうに見上げてくるイチルの額にもう一度手をあてて先生は笑った。ほうれい線に皺が刻まれる。
「王子が付けてさしあげたんじゃ。そうそう、その王子からお主が眼を覚ましたら嬢ちゃんが世話をするように御達しがきておってな。嬢ちゃんに取り合えずついて行っておくれ」
ぽんぽんと優しく頭を撫でながらそう言った。いったいなんなのだ。王子って誰だ。そ、それよりもノアール!あやつ迷子ではあるまいな!!ムキー、いい歳こいてる大人なくせにいぃいぃ!!
誰か一体どういうことか説明してほしい。ぐったりと肩を落としたイチルに先生が慌て出すがそれに構う暇は彼女にはなかった。
なぜなら扉の向こうは海でした状態からの熱中症ぷらす王子発言。そして、シャロンから貰った仕事についての資料もノアールが眼を通しただけでイチルのもとには何の情報もないのだ。
案内人のくせに案内してないじゃないか。先ほどまでは寂しくて仕方がなかったが、冷静に考えてみるとノアールは非だらけだ。
むすりとそっぽを向きつつムカっ腹をたてる。
だけれども、足元が見えない状況はなにひとつ変わらなくてイチルを不安定にさせていることは間違いなかった。
ティルトに促されベッドからぴょんと飛び降りると足裏がひやっとした。裸足で石畳の上へ降りたから当たり前だった。
確かに冷たかったが、さきほどまで火照っていた残照がなだらかに冷たさを吸収してイチルの体を軽くさせたためなんどかその場で足踏みをする。と、呆れたようなティルトが奥の方からスリッパらしきものを持ってきた。
「ほら早くはけよ」
冷たくて気持ちいいから要らないと言いたかったが、人前でひとりだけ裸足で歩き回っているのも惨めっぽくてイチルは渋々と足元に置かれたスリッパらしきものに足を通した。
見かけによらず軽く、爪先が少しだけ余るが歩くには支障がなさそうであった。こんな小さい足にあうのがよくあったものだなとイチルは関心すると同時に疑問に思ったが、きっとティルトのお古なんだろう。イチルはスリッパもどきに頓着することをやめた。
あれだ、バレーシューズって思えば良いのだな。
先生たちに促されカーテンレールの向こう側に足を踏み出した瞬間、視界に飛び込んできた光景にイチルは顔を青く染め上げた。だって、だって。
すぅっと肺一杯に空気を吸い込んで。
「お、おしろおぉおお!?!?」
だったのだから。
視線の先の大きな出窓の向こう。
童話に出てきそうな大きな城は吹き抜けた一陣の風に揺らぐことなくそびえ立っていた。