存在認識され辛いトラベラー女の話16
あとは体調を整えるだけだと、ぺこりぺこりと頭を下げる男の人と女の人に桃の人は笑って言った。産後の肥立ちが大事なのだとも付け加えて。生まれてからやって来た医師たちにあとは任せてパブを出る。
教会へ帰る道をゆったりと歩いて。今度は土の道ではなく煉瓦で舗装されてる道を進む。夕暮れ時。褪せた灰色の街を茜色に優しく染めて。子どもも大人も家路を急いで道をゆく。交差点を行き交う人。四角く切りとられた窓から、淡い光が漏れる。
(これやこの、ゆくもかえるもわかれては、しるもしらぬもおおさかのせき)
ぽつり、百人一首。連れられた街の中、たくさんの人間がいる。視線をずらすと横を歩く桃の人。おなじ、歩調。ほんの少し、遅らせてみても、横にはやっぱり桃の人で。
街灯には、ちらりちらりと光が揺らぐ。伸びた桃の人のシルエットを踏んで歩く。
(助けてくれてありがとうございました)
なんにもなかったわたしのなかに残るその言葉。向けられるなんて、想像もしてなかったその言葉。
テラ・メエリアはいつだってわたしを放り出そうと機会を狙っていて。排除しようと、していて。テラ・メエリアから向けられるのは全部冷たい呪いの言葉だけだと思ってたのに。所詮テラ・メエリアの構成物でしかない物体が、真逆の言葉を告げる。暖かで優しくて、きらきらしてる、言葉を。
「手伝ってもらったしこれ日当としてもらってちょうだい」
そう言って、ポケットの中から取り出した財布から硬貨を渡そうとしてきた桃の人。突き出してきたその手をずっと眺めて、ようやっと首を横に振ると桃の人は何度か瞬きをしてからうーんと唸り、鼻を一度ひくつかせるとちょっと待ってて!とわたしに告げて駆け出した。
ふいに鼻をかすめたふわりと風に乗って漂うパンのにおいに。
ーとってこい
フラッシュバックした、赤い人の声。だらりとゆれた紐と去って行くその姿。節くれだった指から呆気なく零れた紐の脆い軌跡。獨りだと、痛感した瞬間。
足が動かない、うごけない。雑踏の中を進む桃の人。離れゆくそれが赤い人の背中とだぶって見えて。また、ひとりになるのかと。
(いかないで)
そう声を出せば、振り返ってくれるだろうか。届かなかった声は届くだろうか。望んでもいいのだろうか。もとめて、いいのだろうか。
忘れたふりは、もう、しなくていいのだろうか。次いで口から喘ぐようにでた短い呼気の名をわたしは箱の中から拾い上げて。わらった。