存在認識され辛いトラベラー女の話14
あのあと、数日たったけれど白い人はもうわたしにあの鋭い瞳を向けてはこない。あの数分の出来事がまるでなかったように。
教会の奥にあるキッチンで、ずずずと珈琲を啜る。いま、この空間にはわたし一人。橙の人は教会の仕事で表に出ているし桃の人は部屋から出て来たわたしに買い物に行ってくると作った珈琲を机に置いて扉をくぐっていったのだ。白い人は、よく、わからない。
カップのふちを舐めると苦い味が広がる。ミルクの白が珈琲の色のなか淀んで。ぐるぐると螺旋を描くようなそれをカップを木彫りの机の上に置いてぼんやりと窓の外をみやる。
ダイニングの窓から見えるのは、透き通る青空で。
おはようございます
…おはよ、ございます
今日の天気はなんですか
耳にまだ、残ってる声がする。
「…今日は晴れ、です」
何度も繰り返して覚えさせられたフレーズ。(黒い人は、まだ、あの庭にいるのだろうか)
壁にかけられた木製のフックにヘラやお玉がぶら下がっていて、まだ乾き切っていないお皿は流しにそのままだ。硝子のちいさな入れ物の中には角砂糖。
使い込まれた窯オーブンは今は閉じられていても、夕方には開かれて芳ばしい香りに満ちるのを知っている。机の上の傷をそっと指で撫でて。酷く生活感の溢れた部屋に。なんとも言えない感覚が、沸く。
「っ、ただいま!」
そんな時大きな音を立てて開いた扉にわたしは視線を窓から滑らせた。桃の人が荷物を片手に肩で息をしている。
慌てている様子を、ぼんやりみていたのに。ばたばたと騒音を立てて奥の部屋に向かったと思ったらその手に茶色い鞄を手に戻ってきて、送り出そうとしていたわたしの腕を、桃の人が掴んで存外に強い力で引っ張ってきた。
ふれる、わたしにふれる、桃の人。視るためだけの手段だった、それ。
「人手がたりないしちょっと手伝って!」
甲高い声で言われた言葉に、わたしは頷かざるを得なかった。…断ることなど、しない。(そんな選択肢を選ぶことをとうの昔に捨てたんだ)
裏路地を走る桃の人の後をわたしは追った。コンクリートで塗装されてもいない踏みならされただけの土塊の道をはしる。日差しがわたしをひりひりと焼いて。うっすらと額に汗が滲む。
予想していたよりも大きな街。走って走って、その先にあった建物の中に足を踏み入れて、桃の人は足を止めた。低く唸る女の声。ベッドの上にいた女の人の腹は、大きくて。その中に芽吹いているものを、わたしは知っていた。
同じように、赤を流すものだ。
(ちがう)
柔らかいものだ。
(ちがう)
ぐずる小さきものだ。
『あなたは、忘れてしまったんですね』
(ちがう。忘れたんじゃない)
見たくないものは、すべて、箱に無理矢理押し込めて蓋をして。忘れたふりを、していたの。
そう、その中に在るものをわたしは知っている。何度も、何度も、わたしが繰り返し「奪ってきた」ものだ。
そう認識した瞬間ぶわりと全身から汗が滲んだ。瞼の裏に津波の如く押し寄せる映像。胃からせり上がる酸が口内を犯して吐き出しそうになる。鼻の奥が熱い。全身が途端にバカみたいに震えて止まらない。気を抜くとずるずるみっともなく座り込みそうになる足。
ここに放り出されてからすぐにわたしが、テラ・メエリアから奪ったというのに。どうして、そのことを忘れてたんだろう。
日本にいたとき、わたしは発泡スチロールにつめられた肉しか見たことがなかった。それは酷く機会的にグラム単位でしきつめられて。そこに貼られた値札シールはそれの持つ価値。時々、半額だなんて赤いシールが貼られてて。
わたしは、この世界に落とされてから。肉しか見てなくて、命に触れてなかったのだと知った。生も死も酷く遠いところの存在で。だからこの手で虫や魚を殺したとき酷く動揺したの。
生きるためには、なにかの命を奪わなければならなくて。今までは、わたしが生きるために他の誰かの手が命を奪っていてくれてたと気づいたのに。それでもやっぱり手の中で冷たくなっていくそれらがひどく気持ちが悪くて。そこに伴う感情に見て見ぬ振りをすることを覚えて。
(どうせ、異世界の肉。別世界のわたしには値札分にしか価値のないものだと割り切って)
だって、そうすれば、縋った赤い人の言うことを何とも思わずすることができたのだから。
命を視ていながら、それを肉だと思い込んだこと。忘れたんじゃない、忘れたふりをしていたの。
黒い人は言ってた。わたしは、忘れてしまったのだと。(だけど、フラッシュバックする、その光景をどうして)