存在認識され辛いトラベラー女の話11
「逃げろ」
白い人は言っていた。
白馬と眠っている所を宿屋に帰ってきた白い人に見つかった。白い人は最初何かを言おうと口を開きかけていたけど、白馬がすりりとわたしに甘える様子に黙ることにしたらしい。擦り寄ってきた頭をそっと撫でる。
薄紫を引き伸ばしたような空に沈む陽を部屋の窓から眺めてぼんやりとする。なにも考えないことは、簡単だった。「知り合いが来るからちょっと迎えに行ってくる」と言った白い人は今部屋にはいない。知り合い、と。夕食をとるのだろうか。窓のある部屋に、わたし一人。せっかく月が薄っすらと見えるのだから、勿体無くてカーテンは端で纏めたままだ。早いけれどつけていたランプの火がゆらりと揺らめいて。がちゃり。扉の開いた音に振り返る。空いた扉の向こうからとびこんできたのは知らない数人のひと、たち。
似たようにローブを纏っているその人たちは、跨ぐ、跨ぐ。外と部屋の境界線を。ローブから見えた腰に薙いだ刃物ががしゃりと音を立てて。(いつもと、逆。)わたしはベッドの上で息を潜めた。黙っていれば、触れなければ、どうせこの人たちにわたしを視ることはできないのだ。…はやく、どこかへ消えろ。
薄くうすく息を吸って。曖昧な存在を、消す。上る煙が宙に溶けてしまうように。降り注いだ雨の滴がどこかへ消えてしまうように。その人たちが次に起こす行動をじっと見て。一番前に立っていた男が、一歩、また一歩とわたしとの距離をつめる。手は腰に向かっていて。どくん、心臓の音。ぴくりと足が跳ねて。ローブの隙間から見えたそれは、あそこでよく見ていた刃物。厚く、細く、研ぎ澄まされた剣。人を殺すだけの、もの。
沈んだ夕陽に、部屋の中に影が伸びる。ゆらり、と揺れるそれ。男がわたしを、「視」て。
「双黒の女」
血が逆流して黒と紫の残像が目の裏に媚びりつく。低い声が空気を揺らして耳朶に届いた時には男の伸びた手が、腰元の刃物に辿り着いていて。(ころされる)無意識に蹴飛ばした視界を覆うシーツの白い波。
ぎらりとランプを反射した小さなそれを枕下に忍ばせる癖のついたわたしは。馴染むそれを引き摺り出して覆うシーツの白い渦に手を押し込んだ。白い渦から滴り落ちるあか、壁一面に飛び散った熱い飛沫に。
「逃げろ」
窓のない部屋から追い出した白い人の声が脳裏を駆け巡って。
わたしは開けた窓から飛び降りた。
✳︎
轟く物が壊れる音。久しく聞いていなかったけれど。命を奪い合う音。呻く音。喉に血が詰まる音。肉を裂き切り開く音。聞くな、聞くな。聞こえないふりをしろ。吐く音。濃い死の気配。
助けて。
聞こえた、か細い祈りを告げるそれを赤い人は、嗤って踏みつけた。
声が、聞こえなくなった。
✳︎
飛び降りた衝撃で痺れる足を引きずって走り出そうと踏み出したが、わたしはすぐさま動きを止めた。囲まれている。視えるはずのないわたしが、世界から離れたところにいるわたしが。今までわたしに顔を背けていたくせに。わたしを認識すらしようとしなかったくせに!
(なんで、なんで、なんで!)
後ろに空いた壁との隙間に入り込む気配。最初から、配置していたのだろうか。最初から、分かっていたのだろうか。わたしが、窓から飛び降りて逃げることを。ざっと、数えて両手でぎりぎり足りるほど。うしろに目なんてない。振り返りたいけど、振り返ったとしても、同じこと。瞳孔が開く。ぎゅうと狭まった視界。枕下のナイフは刺した男の腹の中。薄い薄いわたしのナイフは、部屋の袋の中。つう、と汗が背中につたって。零れ落ちそうになる熱さ。
世界が、わたしを殺しにきた。そう思った。
……赤い人は言った。
どうせ誰も助けちゃくンねえんだ、ンなら…
「っ!?」
振り上げた足。男の手首を狙って落とした踵の反動に、向けられた剣が弾かれて地面を滑る。転がる剣に気を取られた男の視界から逃れるように身を低くして、腹部を蹴り飛ばし、土を踏みこむ。手を伸ばすわたし。目の前の男の唖然とした息遣いを近くに感じて。滑りおちた剣のグリップを握る。残っていた他人の温もりの上に、わたしの温度。気持ちが、悪かった。だけど、それでも臆病者のわたしは死にたくなくて。剣は見た目に合わず、重かったけれど。
見上げた空には雲がない。丸い綺麗な月だ。記憶に残る赤い人の動きを真似るように。なぞるように。握った剣を横へと薙いだ。剣身に食い込む肉に、男は驚愕の色を浮かべて。ぶちゅりと水気の含んだ音を出して赤い弧を描くそれ。人を刺した感触は、案外屠殺の感触と似ていてもう、慣れた。
べとりと、不快な粘り気。これが、人間を人間足らしめるものの一つだとは思いたくなくて。
(さようなら)
「っ、てめええええええ!」
飛び込んでくるタイミングを伺っていたうちの一人が叫ぶ。雷鳴が鳴り響くが如き激昂。大きな、男の顔に浮かぶのは。怒りと、ほんの少しの、悲しみ。わたしは、振り上げられた大剣を見上げて。柄を握る。あ、前だけじゃない、横からも、来た。柄を握り直して。その時が訪れるのに備える。ああ、上手くいくだろうか。
俺から学べ。と言った彼のように。
「女一人に複数っていうのはちょっとどうなんすかねー?」
透き通る声にわたしの前で構えていた大男が斃れる。
呆気なく倒れた人のその向こうにいた、橙色と、瞳があったけど、反射的に左から来たやつに切りつける。だけど。同じようにざわついて襲いかかってくる知らない人たちを切り捨てる橙の人。
「新手か!?」
「くそ、いったいなんだっつうんだっ」
そんな情報聞いてねえと喚く男たちを橙色は歯牙にも掛けない。剣戟の、音。コンセントに絡み合ったコードみたいな思考。それでもやっぱり電気は通っていて。さっき奪った剣は、知らない人に刺さって抜けなくなった。でも身体は動く。ずちゃりと屍肉に食い込んで引っかかる赤い剣を力ずくで抜いて。血走る男の剣を弾こうとしたとき。
「人様の部屋を勝手に荒らした上に忘れもんかよ」
夜空に雪のように窓の欠片が空から舞って。どさりと男が投げ出される。重力に従って落ちて、地面に打ち付けられたそれ。わたしのナイフと打ち止められた赤黒いシーツがふわりと裾を翻して。新たに現れた気配にそっと深く息を吸った。鼻腔に広がった重々しい鉄の臭いに息を止めていたことに気づいて。狭まってた視界が、広がる。大きくて、まぁるくて、柔らかな月の光が、とろりと注いで。銀に輝く、色。肩に置かれたその手に今度こそ振り返って。
「忘れもん、届けに来てやったぞ」
白い人が薄く笑ったのが、みえた。
✳︎
白い人がきてからは、あっという間のことだった。舞う蝶のようにひらりひらりと白い人が動くたび、そこには黒い塊が倒れた。剣戟と泣き叫ぶ声と飛び散る音。簡単に崩れ落ちた塊をわたしは見下ろした。月光の下。土は液体で湿っていて。助けてくれ、細い声。叫んでいた大きい人。濃い死の気配。剣はもう使えない。人間の脂に塗れて使えない。だから、わたしは。足元に転がるそれに一歩近づいて。
ぐちゃり。踏みつけたら、ひゅーひゅーと聞こえていた不快な音が、絶えた。
白い人の独壇場になったそこから逃げようとする男たちを、橙の人が「だーめっすよ。男の風上にも置けない奴らはこうっす!」といって、逃しはしない。人数はこちらの方が圧倒的に少ないのに、ぷちりぷちりと這う蟻を潰すように確実に、息の根を止めて行く。圧倒的な力の差。わたしは、橙の人から距離をとり静観していたが、宿屋に灯る光と、騒ぐ音が風に乗って聞こえて。
「げえっ!!衛兵来たっすからさっさとずらかるっすよ!」
「うるせえ俺に命令すんな」
気づいたら、わたしたち三人しか立ってる者はいなかった。