存在認識され辛いトラベラー女の話10
駆ける、駆ける。蹄は土を大きく蹴って。
街道から伸びる橋を渡り、森の中のむき出しの岩の間を走り、水の張った溜まり場を飛び越え、月の届かぬ木の根元で眠り、朝焼けとともにまた駆け出す。朝焼けが降り注ぐ白馬は土埃を被った灰色に汚れていたけれど白い人は黙って前を見据えていた。だから、わたしも、静かに呼吸を繰り返して黙った。
白い人が持っていた袋の中から干し肉を食べ、それがなくなると川で水を汲み森で動物を殺し肉を割き、川辺でそのまま血を洗い流した。赤が川の流れに襲われてゆらりゆらりと色をなくす。頭皮の痒みに、ぼりぼりと頭をかくと爪の間に黄色い脂が浮いたフケがつまった。川の水に手を浸してそのまま川に顔を突っ込む。水を少し口に含み、吐き出す。冷たい。歯に舌を這わせる。ざらざらする。
ぱしゃんと顔を上げて振り返るとと白い人が肉を干していた。鉄の臭いが少し、する。ぼたぼたと、頬から顎の先を伝って滴が落ちていく。ぼたり、ぼたり。
「火を焚くから、ついでに洗っとけ」
「うん」
小さく頷いて今度は深く頭を川へ浸した。目は瞑っているから見えないけれど川の中ではきっとわたしの黒い髪がうねっているんだろう。冷たい水が耳に入って、高い耳鳴りがした気がした。
山を越えて街を越えて川を越えて、そして小さな街をまた越えたその先の大きな街で白馬はその歩みを止めた。
「スキエンティア」
そう白い人は懐かしむように噛みしめるように呟き、両足で馬の横腹を蹴ると、白馬がひひんと嘶いて夕暮れに染まる斜面を駆け下りた。風を切る、わたしたちにはためいたフードから零れ落ちた黒髪が空へと舞った。
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先に古びた宿屋に入った白い人を白馬と共に外で待つ。円らな黒い瞳がぱちりと瞬いてするりと顔を私の手へと擦りつけたきた。
「…白馬」
ここ何週間か休憩を挟みつつも毎日わたしと白い人を乗せて駆けてくれた馬。いまは、身体中が灰色に染まってるけど、本当は白く輝く馬。だから白馬、と呼んで顔を撫でると白馬は満足そうに目を細めた。草臥れたローブに解れた糸が風にそよいだ。
馬を厩に預けて取った二階の部屋へと入ると存外に中は小綺麗だった。ベッドが二つに窓のある部屋。一階の奥にある大衆浴場へとタオルを持って行くとカウンターがちらりとわたしを見てなんでもないように新聞へ目を落とした。
軽く食事をとってから身体に塗れていた垢や脂を流し、湯に浸かる。ざぶん、と入ってきたおばさんがわたしを避けて端へ腰を下ろすと、溢れたお湯がくるくると排水溝に流れていった。タオルで体を拭っても、爪の間に黄色い垢は挟まらなかった。黒い人は、どうしたのだろう。ちらちらと脳裏に翳る黒い人はわたしに背を向けたままだった。
部屋に戻ると白い人が入口側のベッドに座っていたからわたしは窓際の空いているベッドに腰掛けた。夜空には雲がかかっていなくて、綺麗な星が見える。白い人は肩にかけていたタオルで湿った髪をぬぐって言った。
「明日俺は用事があるからお前は出来るだけ部屋から…いや、宿屋の中からは出るなよ」
こくん。頷く。白い人はわたしを見て消すぞ、と言ってランプを消した。
暗くなった部屋。中途半端に閉められた窓のカーテンから、夜空に煌めく星と瞳があった。
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大通りは歩かない、それは白い人との間の暗黙の了解だった。人目を避けて辿り着いただろう宿屋のベッドから目を覚ますと隣のベッドは空っぽだった。
窓を見ると、きっちりと閉められたカーテンが陽射しをやんわりと遮断する。夜中は星空が見えたのに、と、のろのろと重い手を伸ばしてカーテンを引っ張る。目を刺す急激な光に意識がくらりと飛びそうになった。窓から見えるのは、大通りに続くだろう裏道と隣の煉瓦の壁と、建物の中に浮かぶ大空。ぼんやりとそれを眺めて。視線を部屋へと巡らせた。清潔な白いシーツに包まって、柔らかな陽射しが注ぐそんな、窓のある部屋。カーテンを穏やかに揺らす風は吹いていなかったけれど。最初に深い森の海で求めていた物がここにあった。けれど、それでも。なんでだろう。あんなに求めていた物だけど、手に入れた今となっては感情の琴線を一度でも揺らすことはなくて。あんなにも、キラキラしていたものなのに。
「……キラキラ、ない」
黒い人は言っていた。それは、わたしがなくしてしまったものだと。それなら、わたしはいったい、今度は何をなくしたと言うのだろう。
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部屋の片隅にあった桶に水を張って
肩にかけたタオルを湿らせてぎゅうと絞った。手にうっすらと青い血管、浮かび上がる。
「白馬。…拭くよ」
厩の中に大人しく顔を擦り寄せてくる白馬にそう語りかけて顔をタオルで拭った。これが本当のやり方かは分からない。けど、あの時、夜空を飛んだ銀の輝きが、キラキラ煌めいていて。無心に、わたしは白馬を拭き続けた。その間、白馬は時折身体を動かしたけれど、嫌がることなく大人しくしてくれていた。透明に澄んでいた水が茶色く澱んで。
「……白馬」
ぽつりと意味もなく呟いたけれど、白馬は耳をぴくりと動かして。どうしたの?と言うかのようにわたしの髪の毛をもそりと食んだ。余りにも人間臭いそれに、わたしは思わず口角を釣り上げ、なんでもない。と首を軽くさすった。手のひらに届く、温かさ。脈打つそれらに生を感じて。その温度にそっと目を閉じた。生きてる。白馬は生きている。そして今肺を動かして息を吸っているわたしも生きている。だけど、きっと生きている場所は違うのだろう。
ふいに、大人しくしていた白馬のぶるると嘶いた音に目を開くとわたしの襤褸の服を咥えて白馬は脚を折った。敷き詰められた藁の上に引きずられるように座り込む。身体をまるめた白馬は座り込んだわたしを見て満足そうに目を閉じたから。わたしも白馬に寄り添って目を閉じる。とくん、とくん、跳ねる音。
白馬は、テラ・メエリアで生きていて。わたしは、放り出されたモノが辿り着く名もない場所に独り、……ああ、…ちがう…
厩の隙間から昼の穏やかな陽射しが差し込んで。生きてる場所が異なるわたしたちは同じ陽だまりの中、微睡みの海へと沈んだ。
(いまは、ふたりぼっちの、世界に、……)