存在認識され辛いトラベラー女の話9
黒い人が、私の手をひいて、窓のない部屋から扉の外へ出る。
ほんの少しの花の色に、黒、白、赤。それが、ずっと私の世界の色だった。何と言えばいいのだろう。それは、まるで、暗いシアターに映し出された映像に飛び込むような。枯れた大地が生命に溢れるような。雲切れた小さな隙間から注ぐ光のような。遠くの世界が急に近く見えて。
薄く伸びる淡い雲を柔らかな赤で染め上げて、零れる槐色の柔らかな陽が景色を優しく包み込む。夜の空と混じりあった、そんな雨が止んだ空の夕焼けは酷く、穏やさの中にほんの少しの寂寞。
窓のない灰色のキャンパスに襲いかかる鮮やかな数え切れない色彩の渦にわたしは目を回す前に息を止めた。見慣れた、いや、この見慣れていた色彩は、向かいから来る自転車を避けるためコンビニの横を曲がったとき見えた世界の、色だ。
そのとき思い出した。わたし、は、この世界に、この異世界に深く絶望したことを。地べたを這い蹲り、泥を啜り、生き物を殺したときわたしが『わたし』の全てを捨てたあの瞬間に。
痛み、幸せ、善悪。そんな感情は捨てなければならない。生きるために!!
(一番騙しやすい相手っていうのは、結局自分自身なんだよ)
吸い込む空気が肺を冷たく刺激して、どくりと心臓が跳ねた。『わたし』が、深い沼の底から這い上がろうと淵に手をかけている。わたしとは違う『わたし』が。出てきちゃ、ダメ。出てきたら、駄目だ。あなたが出てきてしまったら、わたしは生きては、いけない。
『この世界は、あなたにとって優しくないものだったし、これから先の未来もきっとそうなのだと思います。けれど、このまま、あなたの世界は、あなたという世界はどうか優しくあれ』
色の坩堝の中、背中を捉えた黒が何かを押し殺すように、静かに囁いた。なぜだか、繋がれた手を振り払いたくなった。
『僕はあなたの世界の一部に成り得たんでしょうか』
ぽつりと落ちたそれは余りにも小さくて。夕焼けを覆いつくそうとする夜の気配が色濃い空に庭を通り過ぎた先にある、裏口の前で黒い人はそう言って少し、笑った。わたしは、聞こえてないふりをして、心の中で、よくわからないと、そう、返した。
外と中との境目。裏口の後と先。黒い人とわたしの境界線。黒い人がわたしの背を優しく押して、見えない線をわたしの足が跨いだ瞬間。どうか忘れないでください。聞こえた。
『もう独りにはさせないです』
そう言って、もう一度開いた口をゆるりと閉じて。振り返ったわたしが見えたのは、二人を隔てる、ぱたんと貝のように閉じた木の戸だった。
今となって思う。あのとき、わたしは超えてはいけない線を越えてしまったのだと。
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するりと入り込んだ大きな屋敷。以前来た庭から望む月を、あの日のようにわたしは見上げる。ここへ来る道中、たった一つの馬車を除いて夜道をすれ違うものはなく。しんしんと照る月光に生命の気配はない。この屋敷は主人が奪われた後に捨てられたのだろうか。犬も、メイドも、下働きもいない。時を経ってこの庭も、いつかは人知れず朽ちるのだろう。いや、もしかすると庭から伸びた植物の蔓が屋敷を覆い這うのかもしれない。ずるりと冷たい壁を背にわたしは地面に座り込んだ。そう、この壁もいつかはその一部になるのかもしれない。綺麗に刈り込まれていた庭木は最早自由に伸びていて。
彼らは、来るのだろうか。屋敷が深緑に呑み込まれる前に来てくれるのだろうか。信じても、いいのだろうか。あとで合流すると言った白い人を。独りのわたしに、二人ぼっちになろうと手を差し伸べてくれた、彼を。
だけど、結局わたしはそう疑念を抱きつつも信じることしかできないのだ。独りという恐怖から逃れられなかったわたしには。そう、わたしは、しょせん。独りぼっちの孤独に耐えれないだけだったんだ。
だから、この世界で独りのわたしを一人として見つけてくれた赤い人との薄く脆い繋がりを保っていたかった。だから、わたしは、赤い人に言われるがまま生きてきたのだ。死にたくなかった。たとえ独りだったとしても死にたくは、なかった。世界で独りだと紡ぐその口に安堵していたことを赤い人は気付いていたのだろうか。弱虫なわたしは、どこまでいっても弱虫で。だからわたしは赤い人が訪れる窓のない部屋で、一人息をして。だけど、同時に思ってもいた。わたしに生きている意味があるのだろうか、と。
雨の残照を残すように、花から一滴、雫が零れて地面にまあるい月を描いた。
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馬の嘶きが聞こえた気がして閉じた瞳を開くと、相変わらず月光の淡い光に包まれてぼんやりと浮かび上がっていた庭が見えた。
耳を澄ますと風の音に混じって届く馬の嘶き。そして、それは段々とこちらへ近づいてくる。どこを、走っているのだろう。馬の蹄の音までも大きくなって。
風の音。馬の嘶き。蹄の音。次いで耳が拾ったその音に、わたしはよろりと立ち上がった。聞き慣れた、音だ。
全身の血が落ちて、燃え上がるように瞬間、身体の血管を光の速度で駆け走る。頬が、熱い。
ぱっと音が聞こえる方へ身体を向けると。鳥だと思った。決して届かない大空を羽ばたく鳥。庭木を大きく飛翔したそれは滑らかな皮膚を滑る月光を浴び存外静かに大地へと舞い降りた。
それの姿は、鬣を靡かせる白馬だった。夜空の星を溶け込ませたような大きなきらきらの瞳が薄く細まって、ぶるると嘶く。静かに、馬は呆然と立ち尽くすわたしの前で止まって。
「…みっけた」
馬の上で手綱を持つ手が黒いフードを上げて。白い髪が、こぼれおちて。
いや、違う。赤い。白い髪が、少し、赤い。まるで、仕事の後のように。飛び散る赤の、色。見開いた瞳と白い人の視線が交錯して。なに、どうしたの。なんで赤いの。怪我したの。早く治療したほうがいい。ねえ、なんで、肩がそんなに震えてるの。聞きたいことが怒濤の如く頭をぐるぐると螺旋して。捻れて捻れてぐちゃぐちゃなそれらは回線とは上手く噛み合わなくて。
白い人はわたしを『視て』、月の光を吸い込んで銀色に煌く白馬から、わたしを『視』下ろして。黒い人みたいに、なにかを押し殺すように、漏れるなにかを抑えるように。
「この世界にいる以上、戻らねえ過去に縋んな、未来を夢見んな。何があっても現在を生きると覚悟を決めろ。拒否はさせねえ」
そういって。
「俺の手を取れ!この世界…テラ・メエリアで、生き抜け!」
鋭さを湛えた瞳は、揺るがせずに。わたしに手を伸ばした。
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この世界、テラ・メエリアで生きる覚悟をしろ、生き抜けと言われたけれど、よくわからなかった。だけど、ぼんやりとした気持ちの中には死にたくない思いと、独りは嫌だという思いがあった。
馬を時折休ませながらも疾走し続けて3回目の月を見たとき漸く白い人は手綱を引く手を止めて、一つの宿屋へ入った。黒い人は待たなくていいのかと聞いたのだけれど白い人は、ああ。と軽く頷いただけだった。
一日ベッドで休んだ早朝。まだ吐く息が白いそんな時間帯に宿屋を出たわたしたちはまた馬に乗って街道をひた走った。その先にあったのは、仕事の関係で見たことのある割と大きい街だった。逃げろ、と白い人は言っていた。何からかは分からなかった。けど、本当に合流してくれた。それだけで充分だと思ったわたしは敢えて聞くことはしなかった。二人ぼっちになろうと言ってくれた黒い人が気にはなっていたが。ああ、それよりも、なんだか、急に、処理しきれないほどの色と音の濁流が、酷くノイズとなって。頭を痛みで苛む。
*
街外れにある小さな宿屋に今日は泊まるらしい。夕方に辿り着いたそこは宿屋というよりも大衆食堂のようだった。がちゃがちゃと食器が触れ合う音とざわつく喧騒が大広間から聞こえる。ロビーへと向かって前を歩く白い人を追いかけて一歩後ろに立つ。
「二人だね。部屋は一つでいいかい?」
「ああ」
こくりと頷く白い人。周りを見渡したけれども、白い人の周りにわたしを除いて一組としてみられる者はいない。だが、彼女は言った。二人だと。
わたしは思わず肩を跳ねさせたが、鍵を受け取った白い人の後を慌てて追いかけローブを掴む。申し訳ないくらいの力で引っ張られた袖口に白い人は何も言わず、わたしの頭をぽん、と軽く触るだけに留めた。それはまるで、気にするな、と言っているようで。
遠かった世界が、存在の認識すらしかねていたそんな世界が。手が届きそうになるくらいに近くまで、細部まで見渡せるくらい距離を縮めた気がして。
すこし、胸がざわついた。