存在認識され辛いトラベラー女の話8
今日は ねえ!
その日は、いつもと少し違っていた。部屋に飛び込んできた白い人が、なにかを大声で叫んでから何もない空間に探るように手を伸ばし始めたから。
ふだんは、部屋に入って伸ばした手にわたしが触れるのを待っていただけなのに。
わたしは黙ってそれを見ていた。
なにかが変わるなんて思ってはいなかったけれど、白い人がなにをするのか見てみたかったから。
だあっ、くそっ!
左に行っては右に行く。
小さい部屋じゃあすぐ終わる。
あ、目の前。
指先がわたしを掠めて、見上げると、瞳がわたしを「視て」いて。白い人が、満面の笑みを浮かべていて。息がつまった。
白い人が言った。
俺を無視すんには百年早い。
ことり、なにかが崩れそうな音が遠くでした。
✳︎
赤い人の機嫌を損ねないように、話しかけられるまでは黙ることが多くなった。
赤い人はそんなわたしをみて面白そうに目を細めた。
「おはようございます」
「…おはよ、ございます」
「今日の天気はなんですか」
「今日は晴れ、です」
何度も覚えさせられたフレーズで黒い人と会話の勉強をすると、そういえばと、彼は得意げそうにわたしを庭へと連れ出した白い人に話しかけた。
間違えていないか確認するために白い人の手は会話訓練の際わたしに触れている。
ああ、と。空を見上げたら、雲ひとつない綺麗な青の中に眩しい太陽が見えた。燦々とした太陽が、私を照らす。暖かいと思った。
二人のゆっくりとした会話を微睡みの歌へとかえて。
「 ですね」
『いや、前無視されたってのが無償にイラってきてな。あっちから来ねえんなら、こっちから探しゃあいいだけだと気づいた』
探しゃあいい。その音が、眠りに落ちそうなわたしのなかで響く。空っぽの中で静かに響く。遮る葉から漏れる木漏れ日も、まだ草が生い茂るこの小さな庭も。二人の、存在も。平面な世界が浮き彫りになって。ざあざあと不快なノイズをだしていたテレビが、ぷちり、消えた。
赤い人が言っていた。
誰もおめえに気づきゃァしねえし、探しすらしねえだろうよ。
目の奥が酷く熱くて。
堰き止めていた溢れ出しそうななにかが、きらきらと零れ落ちて。零れてしまったそれを啜ることなく瞳を閉じた、わたしは見ていない。
「あ」
黒い人の手からじょうろが落ちて、太陽の光を吸い込んだ雫が空へと舞って小さな虹の滝が架かったその一瞬を。
黒い人は言った。
世界は優しくて温かくて「幸せ」ってのに溢れてるんです。
ー外は、どうでしたか。
答えられるだろうか。今のわたしに。
ーよく、わからない。だけど、きっと。今を、世界と呼んでいいのなら。
いつか言葉にして、この人に伝えることはできるだろうか。
ー幸せに出会ったと。
「 ました 」
『まじかよ!』
✳︎
種を、庭へ埋めた。何の種かは、教えてくれなかったけど。
✳︎
あてがわれた窓のない部屋。
わたしをベッドへ突き倒し押しスプリングが軋んだ音を立てたかと思ったら、太い腕に囲まれた。首に手がかかる。
赤い首輪が外されて。小さく震えると、くつくつと喉で赤い人は嗤って言った。
捨てられたくなきゃァ、俺に従え。
わたしは、喘ぐ魚のように頷くしかなかった。だって赤い人がわたしの世界だったから。
✳︎
仕事だとカウンターの人がいった。
死なないためにすることも、仕事と言っていいのかと聞いたら、隣に立っていた赤い人が突然傑作だァ!とげらげらと腹を抱えて嗤い始めた。
カウンターの人が一瞬肩を跳ねさせたが素知らぬ顔で紙を手繰り寄せて突きつける。古臭く荒れた紙には変な絵が踊っている。何度見ても文字には見えない。でも、それに触れれば理解できるというのだから謎だ。
黙って受け取って赤い人を見上げる。まだ笑いとまらない。ぐるうり、と見渡すとホールに出入りする人たちがみんなギョッとして、すたこらさっさと去って行く。わたしに驚いてるのではない、隣の赤い人に恐懼しているのだ。首輪から伸びる紐を見てじっとまっていると、わらってわらって、一息ついて。
赤い人はいった。
そりゃァ、本能だ
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その日は朝から雨が降っていたらしい。窓のない部屋にいるわたしにはわからなかったけれど、黒い人がそう言ってたからそうなのだろう。
白い人がくれたオルゴールがくるくると回って静かな部屋に響く。たらららららん、たららららん。金属を弾く音。
花瓶に生けられた花弁には小さな雫が溜まって雨の名残をほのかに表していて、全てを凝縮させたルーペのようだった。
ふと、朝焼け、夕暮れに染まる庭はいつものことだけれど。雨の日の庭へと出たことはないと気がついて。
「外へ、」
行ってみようかと思った。
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むわりとした湿気のにおいに鼻をひくつかせる。べちゃつく髪に、服に染み込む雨。湿る、土の臭い。気持ち悪い。吐きそうになった。
黒い人がいたときは、そんなことなかったのに。
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雨が止んで、白い人が部屋に来た。その手には、黒いローブと小さな袋。仕事だと思った。
白い人が言った。
逃げろ。
なにを言ってるか、わからなかった。
外が怖いか。
よく、わからない。
黒いローブを着させて目深にフードを被せた彼をわたしはぼんやりと見上げた。白い人の目は、鋭く光っていて。
あとで、合流する。だから今は早く逃げろ。
一度目は、世界に。
二度目は、赤い人に。
そして、ほら、また、捨てられた。
繋がれていた指が、あっけなく解かれて。遠ざかるそれに、縋ることすら諦めて静かに袋を受け取った。
ちゃりん、と金属が擦れる音が鈍く響いた。
最後に仕事をした所で待ってろ。いいな?あの犬のいたとこだ。
白い人に最後にそう言われても、わたしは、一歩も動かなかった。何度も言いつけて慌てて部屋を出て行った白い人。
手を離してしまえば誰にも見つからない。誰にも認識できないわたしはまるで、幽霊のようだとすこ思った。
誰もわたしをいらないのなら、ここでいっそのこと朽ち果てても構わないとすら、初めて。
くるくる回っていたオルゴールが止まり、生けられた花の花弁が散って、わたしはベッドの中へと潜り込んだ。
とくん、とくん、とくん。音のない部屋に、命の音。
がちゃり、もう開かないと思っていた扉が開いて、
まだ、ここでしたか
ぽつねん、と部屋に落ちる音。
黒い人が、来る。袋から零れた銀貨を踏みつけてわたしのそばへ。
『…わたしは、世界の外。いつだって、独り』
言い聞かせるように、詰るように。分からないように日本語で言ってやった。どうせ、聞こえもしないだろうけど。
だけど、黒い人との距離は縮まるばかりだ。視える筈が、ないのに。真っ直ぐ、わたしの元に。赤い人は言った。わたしは独りなのだと。世界に弾かれるわたしは、その内に入ることすら許されないのだと。
それなのに、どうして。
いつだって、どんなときだって。黒い人の瞳は、いつもわたしを『視て』いて。
黒い人は口を開く。
『あなたの言うその世界に、僕がいるのなら、僕はそこから出ます』
嘘だと、思った。
信じられないと、思った。
黒い人は、言った。
(二人ぼっちに、なりましょう)