存在認識され辛いトラベラー女の話5
そのきっかけは、色々あったけれど。
赤い人がいたの。
黒い人は黙って聞いた。
向かいから来る自転車にコンビニの横を曲がったそのとき、身体が訴えた。(溺れた!)それはまるで、プールに飛び込むあの一瞬。空気と水が触れ合うあの境目。
コンクリートを踏みしめていた足が土を蹴った。
「な、に…?」
次いで眼に飛び込んできたのは見たこともない輝く植物が這う原始の森だった。ひやりと跳ねる心臓の鼓動が体全身に鳴り響く。
永遠に咲いては枯れる花、布を羽織る虫、四つの翼がある鳥、一つの角を持つ動物、渦巻きの果物、空を泳ぐ魚。
「ちょ、ちょっと待ってよ…!」
ありえない。なんなのここは。馬鹿馬鹿しい夢かと思ったけれど、いやに感覚が鋭くて、じとりと浮かんだ汗が背中を伝って。考えて考えて考えて。
「……嘘でしょ?」
悟った。
わたしは、神隠しにあったのだと。
✳︎
赤い人が言った。
殺すってのァ、生きるってこった
サバイバル経験もなければ、キャンプの経験すらないわたしは、取り敢えず人を探そうと鬱蒼とする森へと足を踏み込んで歩き回った。
「とりあえず、森を抜ければ誰かにあえるはず」
草木に引っ掛かり破れた袖口、水を含んだ苔に足元を滑らせ脚が浮腫み続けても。痛い。蔓を掻き分け深い苔に覆われた獣道を進み続けた。二日歩き続けてようやく見つけた湧き水で油でべたついた髪を洗い流す。冷たい。
そして穴の空いた上着で、滴る雫を拭おうとしたけれど、白いフケや知らない綿がこびりついていて諦めてそれも洗った。
これは、いわば異世界トリップというやつなのだろう。普段から読み込んでいる小説ならば、たいていはお城とかに召喚されてなんか試練を乗り越えて王子様と結婚するのに。最初からバッドエンドみたいなこれなに!
乾かしたパンツを履いたら変に怒りがふつふつと湧き上がるが、ぎりぎりと歯を食いしばり、誰か人に会えば、なんとかなる。時折木霊する狼みたいな声に震えたけれど、そう信じ続けて一歩、また一歩進んだ。痛いし臭いし寒いし痒いし、やってらんない。
原始の森とも言えど、太陽が登る時間は仄かに明るくなるし、沈めば暗闇に包まれる。
太陽が昇って沈んで夜が来て、わたしはじっと木の下で身を縮めた。月の光が樹々の僅かな隙間を縫って降り注ぐ。
がざりと揺れる木の葉に目をつぶって耐えた。なんにも、悪いことをしてないのに。なんでこんな目にあってるの。怒りは緩やかに解かれて胸を突くような悲しみに声を押し殺して泣いた。
愕然として、怒りが湧いて、悲しみに襲われて。未知なる森の中、わたしは黙って歩くようになった。それでも、自分を奮い立たせた。こんなところで、死にたくない。
変わらない緑の深海を歩いてあるいて、そしてその時は急に訪れた。ほぼ不眠不休で歩き続けたツケ。倒れた。
ゆれる視界に痺れる手足。脳天をぐちゃぐちゃに掻き回されてフェードアウトしそうになる意識。吐き気をもよおす胃。意思に反して動こうとしない体にわたしは震えたけれど、少し休めばなんとかなる。そう楽観的にすら思っていた。
はじめは、果物を食べて生きてきた。そのまま地面に這いつくばって、 段々と痩せ細っていく手足と窪んだ両目が湖に映し出されたときに気づいた。このままでは、知らない場所で、誰にも知らされず息を引き止めるのだろうと。怖いと思った。
ぶちり。
脳の何処かが切れる音がして、わたしは動かない体を意思で支配する術を覚えた。
永遠に咲いては枯れる花、布を羽織る虫、四つの翼がある鳥、一つの角を持つ動物、渦巻きの果物、空を泳ぐ魚。
目に付くものは全て口に入れた
虫を捉えて布を引きちぎった。
ぴくりぴくりと足が跳ねてた。
目をそらした。体に巻いた。
鳥を捕まえて首を絞めた。
暴れてたのに、動かなくなった。
伝わってた脈がとまったのが分かって手が震えた。手のまめが潰れた。
空を泳いでいた魚は尖った木の枝で骨まで貫いて焼いた。濁った白い目を喰らう。
目を閉じて浅い眠りにつく。次また瞼の向こうに見るのがあっちの世界でありますように。コンクリートに囲まれた世界を浮かべて。祈るように目を開けたけど、暗闇の中飛び交う蛍みたいに光る植物は淡く点滅を繰り返すだけだった。泣いた。
泣いて泣いて、気持ちが悪くて吐いて。吐いて混ざった汚泥をまた啜って飲み込んだ。
草を食べて、また吐いた。反射的に流れ落ちる涙が赤い線の上ををなぞる。一つの角をもつ動物を傷つけ、吐いた。頬が痛い。虫を殺し食べた。火を起こそうとした枝に血が垂れる。鳥を殺し、羽を千切り口に押し込んだ。吐いた。魚を殺し食べた。だけど。死にたくない。死にたいなんて弱音は、吐かなかった。
火を起こそうとした枯れ木と、石、骨が散乱したその場から、立ち上がってまた進んだ。人がいるところに。
あは、こんなぼろぼろの格好みたら、吃驚しちゃうかも。
でも、そしたら、きっと警察みたいなのが保護してくれて。
なんかの心配をかけてしまうかもしれないけれど、向けられる優しさを申し訳なさ気に受け止めて。
わたしは世界に繋がる情報に耳を傾けるのだろう。柔らかな日差しが注ぐ窓辺のベッドの上できっと。
助かったら、こうなるのだろうとまだ見ぬ未来を空想してわたしは笑った。
雨が降った。ずるりと足を滑らせて倒れた。口の中は、からからと熱いくせ、体は冷たい。動けなくなった。雫を染み込ませたぐちゃぐちゃの土。
捨てられたと思った。いままでわたしを柔らかく包んでいた世界。わたしは、まだ見ぬ先を思い浮かべた。
ううん、まだ、だめ!
黒い黴胞子が視覚の隅を侵し続けたある瞬間、閉じかけた瞳を見開いて顔を上げた。うごけうごけうごけうごいて!わたし全ての力を振り絞って叫んだ。
人影だ!あれは、人だ!
これで、死ななくて済む。知らない夜に恐怖することなく、たくさんのものを殺さなくてももう良い。怖いことはもうない。
ようやくプロローグが終わった!
「助けて!」
冷えていた体に血液が逆流するかのような熱が迸り叫んだ。
こちらに馬のような動物に乗って向かってくる人たち。黒いマントを羽織ってる人たち。助かった。助かったのだ。痛い思いももうしなくていい。辛い思いもしなくていい。段々と大きくなる土を蹴るひずめの音に仄かに口元を緩めわたしのすぐ横を、静かな風が抜いて。
「え」
この「世界」の人たちは、わたしへ一瞥をくれることもなく。まるで、なにも見えていないかのように、通り過ぎて行った。
相手に一縷の望みをかけた。優しさだとか、憐れみだとか、そういうもの。
「…なんで、まって、たすけてっ」
伸ばした手が、泥水を弾いた。
赤い人は言った。
求めることは、愚かだと。