旅立ちの予感
センターの自動扉が静かに閉じる音が、背後で響いた。
金属の軋みとともに、冷たい外気が三人の頬を撫でる。
無言のまま、涼子が一歩先を歩き出す。
その後ろを、香菜と玲美が並んで続いた。
足元に響くヒールの音が、都会のざわめきの中に溶けていく。
さっきまでいた白い部屋の無機質な光はもうなく、
今ここにあるのは灰色の空と、ビルの谷間に吹く冬の風。
けれど――心の奥にはまだ、さっきまでの電子的な残響が残っている。
あの部屋を出た瞬間に、
“戻れない場所”が、背中の向こう側にできた気がした。
涼子はふと、足を止めた。
通りの向こう、雲の切れ間に見える小さな光。
夕暮れでもない、航空灯でもない。
それは、静かに瞬く赤い点。
――火星。
その光が、地球の外にある現実の星だと気づいた瞬間、
胸の奥で、微かなざわめきが生まれた。
恐れと、憧れと、名づけようのない震えが、ひとつになって膨らんでいく。
玲美が大きく息を吐いた。
白い吐息が冬の空気にほどけ、すぐに消える。
腕を組み、ビルの隙間に浮かぶ赤い点をにらむように見上げた。
「……本当に行くの? あんな話、まだ現実味がない。」
その声には、強がりと苛立ち、そしてわずかな怯えが混ざっていた。
現実を信じ、地に足をつけて生きてきた玲美ほど、
“宇宙”という非現実を認めることが難しい。
涼子はその横顔を静かに見つめ、ゆっくりと口を開く。
「うん……もう一度だけ、賭けてみたい。
歌う場所が、まだどこかにあるなら――。」
彼女の声は、まるで自分に言い聞かせるようだった。
その瞳に映る赤い光は、恐怖ではなく“再生”の色を帯びている。
かつて夢を失った彼女に、再び息を吹き込むかのように。
その沈黙を破ったのは、香菜の明るい声だった。
両手をポケットに突っ込み、笑いながら言う。
「……火星、楽しそうだし! 重力とか、ふわふわなんでしょ?」
玲美が思わず眉をひそめる。
「何それ、遠足じゃないんだから。」
けれど、その軽口にほんの少しだけ救われた。
冷たい風の中に、かすかな温もりが戻ってくる。
赤い星の光が、三人の顔にそれぞれ違う色を落としていた。
恐れ、希望、そして好奇心――
まだ答えのない未来へ、三人の視線は静かに重なっていった。
三人の足が、自然と止まった。
都会の喧騒が遠のき、冬の風が頬を撫でる。
ビル群の狭間、その灰色の雲が一瞬だけ裂け、
空の奥に、淡く赤い光が滲んだ。
火星――。
それは点にも満たない小さな輝きだったが、
三人の視線は、まるで引き寄せられるようにそこへ集まった。
玲美の瞳がわずかに揺れる。
香菜の頬が、冷気ではなく高揚で紅潮している。
涼子はただ、その赤に見入っていた。
まるでそれが、彼女たちの“運命のランプ”であるかのように。
遠く、静かに、しかし確かに瞬く光。
誰にも届かない距離で、それでも彼女たちを導くように。
――涼子のモノローグ。
“あの光の向こうに、私たちの“ステージ”がある。
怖くても、進むしかない。
だって――もう夢を手放す場所なんて、地球にはないから。”
その瞬間、街のざわめきが再び戻ってきた。
信号の点滅、車のエンジン音、人々の足音。
だが三人の耳には、それらの音が遠くに霞んで聞こえた。
彼女たちの心は、すでに“地球”の外側へ――
赤い星の方向へ、静かに動き始めていた。
玲美が小さく息を吐いた。
冬の風が髪を揺らし、街のノイズの中でその声は微かに溶けていく。
「……あんたたち、本気なんだ。」
その言葉には、呆れと、ほんの少しの羨望が混ざっていた。
香菜は笑顔で頷く。
「うん! 本気じゃなきゃ、星まで行けないですよ。」
玲美は小さく目を閉じ、冷たい空気を肺に吸い込む。
そして、肩の力を抜くように笑った。
「……まったく。止めても無駄ってわけね。」
涼子は前を見据え、一歩、歩み出す。
その足取りはまだ確かではない。
けれど、その瞳はもう迷っていなかった。
「行こう。――火星が、待ってる。」
三人のシルエットが、ビル街の光の中を進んでいく。
遠く、空の端に浮かぶひとつの赤い点。
それがまるで呼吸をしているように、静かに瞬いた。
摩天楼の隙間に埋もれる小さな三つの影。
そして、その遥か彼方で輝く“赤い星”。
ただ夜明け前の空に、淡い赤の残光だけが残る。
“彼女たちはまだ知らない。
その“旅立ち”が、夢と現実の境界を越える第一歩になることを。
そして――その赤い星が、彼女たちのすべてを変えることを。”
街の喧騒も、遠ざかる電車の音も、次第に消えていく。
最後に残るのは、薄曇りの空の彼方で、
かすかに瞬く赤い点。
それは“火星”と呼ばれる星。
けれど、この瞬間の彼女たちにとっては、
まだ“希望”という名の灯にすぎなかった。
新宿軌道センターの屋上。
夜明け前の空気はまだ冷たく、
都市の息づかいだけが遠くでざわめいている。
ガラスの壁に、三人の姿がぼんやりと映り込む。
眠りから覚める街を背に、彼女たちは無言で空を見上げていた。
雲の切れ間、夜と朝の境界に――
薄く、赤い星が浮かんでいる。
涼子が小さく呟く。
「星を夢見るって、こういうことだったんだ。」
玲美が隣で、肩をすくめるように笑う。
「……戻れないかもしれないよ。」
それでも、涼子は微笑んで答える。
「うん。でも、それでも、進むしかない。」
ガラスの壁に射す朝の光が、
三人の輪郭をゆっくりと染めていく。
その背後で、赤い星が静かに瞬き、
まるで彼女たちの“旅立ち”を、
どこか遠くから見守っているかのようだった。




