【終章】赤い星のシンフォニー
ライブの夜から、季節がひとつ巡った。
火星ミネルヴァ市の早朝。夜明け前の大通りには、濃い群青の影がまだ残っている。人工大気のフィルターを通した朝の光が、遠くの高層区の壁をほのかに照らし始めていた。
都市のエネルギー供給システムが、静かな呼吸のように低い音を響かせる。ひとつ、またひとつと街灯が落ちていき、街の光は自然な赤紫の空へと引き継がれていく。
数ヶ月前まで“慎重さ”と“疑い”で固く閉ざされていた人々の表情は、どこか柔らかくなっていた。通りを行き交う住民は、酸素マスク越しに鼻歌を漏らしたり、子どもを肩車しながらスピーカー付きのホルダーを鳴らしたりしている。
音がある朝。
火星では、それだけで奇跡だった。
そして――そんな風景の中、彼女たちの物語の「その後」が静かに始まる。
火星が音楽を知り、街が色を取り戻したその未来で、三人の少女たちは今日もまた、新しい一歩を踏み出そうとしていた。
ライブ事件から数ヶ月。
ミネルヴァ市の空気は、かつての静寂をまるで忘れたかのように賑やかになっていた。
朝の広場では、まだ昇りきらない光の下に、市民たちがギターや携帯型キーボードを持ち寄っている。
金属床に響く和音はまだぎこちないが、誰も気にしない。
若い技術者がコードを間違えて苦笑し、隣の子どもが「そこはこう!」と指を添える――そんな光景が日常になっていた。
採鉱地区の休憩所にも、小さなスピーカーが据え付けられた。
赤土にまみれた作業服の労働者たちが、合間に流れてくる“Red Line”に耳を傾ける。
誰かが口ずさみ、また誰かがそれに重ね、やがて会話のように旋律が繋がっていく。火星の重い空気の中に、歌声がふわりと浮かぶ――そんな瞬間が確かに生まれていた。
通学路では、子どもたちの酸素マスクに音符のステッカーが貼られている。
「見て見て! これは涼子のギターのやつ!」
「私は玲美の高音のマーク!」
そんな会話を弾ませながら、彼らは弾む足取りで歩いていく。
街全体が、音を“自分のもの”として扱い始めていた。
さらに、市庁舎前の広場では毎週「市民ステージ」が開かれている。
観光客も、移住者も、子どもも、作業員も、誰でもステージに立てた。
拍手の大きさは実力と関係がなく、“声を出すこと”を祝福するためのものだった。
「音があるって、こんなに嬉しいものだったんだな……」
そう呟く市民の声が、どこか遠い昔の夢のように広がっていく。
生まれてからずっと“無音”だった日常に、ようやく色と温度が戻り始めていた。
火星は今、文化を――音を――初めて共有し始めた星になっていた。
火星の朝は、静かに、しかし確かに温度を帯びてきていた。
その中で、三人はもう“特別な存在”ではなかった。
誰もが彼女たちを知っているのに、誰も「アイドル」とは呼ばない。
むしろ――この街に溶け込んだ“火星の一員”として生きていた。
● 玲美 ― 火星の“姉”になった人
玲美の喉は完全に回復していた。
それどころか、火星の低重力を利用した新しい発声法まで研究している。
胸に溜めた空気の流れ方が地球とは違う。
息が軽く跳ね、声がふわりと浮かぶ――
その特性を生かした独自の歌い方が、今、彼女の新たな武器だった。
朝の広場では、すでに子どもたちが彼女を待っている。
「れーみ! 今日は高い声の出し方教えて!」
玲美は笑いながら子どもたちの中央にしゃがみ込み、ゆっくりと声を伸ばす。
それは指導というより、まるで“姉”が弟や妹に遊びを教えているかのような、温かい時間だった。
● 香菜 ― 火星の音を記録する人
香菜はすっかり技術者としての顔を取り戻していた。
ミネルヴァ市の公共ラジオ局――といっても、元は倉庫だった場所――
そこが今、彼女の職場だ。
壁に簡易吸音材を貼り、旧ライブ会場から回収した機材を並べたスタジオ。
その中央で香菜は、ヘッドホンを首にかけながら若者たちの演奏を録音している。
「うん! 今の最高! そのリズム、火星の感じ出てるよ!」
演奏者の少年が照れながら笑うと、香菜も同じように笑う。
彼女は今、「火星の音を残す」プロジェクトの責任者だ。
街で生まれる新しい音を拾い、記録し、未来へ届ける。
その作業が、彼女にとって何よりの誇りになっていた。
● 涼子 ― “役に立てる自分”を見つけた人
涼子はいつものようにギターを抱え、子どもたちの教室へ向かっていた。
廊下には、軽い重力のせいで弦の振動が地球より少し長く響く。
その音が、彼女の歩調と不思議に合うのだ。
教室に入ると、子どもたちがぱっと笑顔になる。
「今日もやるぞー! 火星ビート!」
涼子は笑ってギターを鳴らす。
その音に合わせて子どもたちが手を叩き、床を踏み鳴らす。
かつて地球で居場所を見つけられなかった彼女。
何者にもなれなかったと自分を責め続けていた彼女。
でも――今は違う。
「地球じゃ何も出来なかった。でも……火星では、誰かの役に立ててる。」
その実感は、彼女の胸の中心に小さな太陽のように宿っている。
ギターを抱えた涼子の背中は、今までで一番、まっすぐだった。
火星ミネルヴァ市の朝は、いつもより騒がしかった。
広場の各所にある情報パネルが、同時に地球回線の“速報”を受信したのだ。
青い地球の海を背景に、記者の声が響く。
《速報です。
アカデミー賞・特別映像文化賞――
火星発『Red Line:Live Uprising』、受賞。》
その瞬間、広場にいた市民たちが一斉に息を呑んだ。
次の瞬間――歓声が爆発した。
巨大スクリーンに映し出されたのは、
ミラとルークが火星地下通路で命がけで編集した配信映像。
あの夜、世界に初めて「検閲を越えた音」が流れた瞬間だ。
● ミラの反応
広場の一角で、ミラは目を丸くして硬直していた。
まるで自分が映っていることを理解するのに数秒かかっているようだった。
「えっ……え、ちょっと待って。
これ、私? 私ら? えぇぇ……?」
頬が真っ赤になる。
火星で暮らし始めてから、ミラがこんな“人間らしく照れる姿”を見るのは珍しい。
● ルークの反応
一方、隣にいたルークは映像を見た瞬間、頭を両手で抱えこんだ。
「うわあああ……俺のあんな顔、地球で流れたのかよ……!」
しかし、画面のテロップには確かにこう書かれている。
《火星の技術者ルーク・ハミル、
“検閲突破技術”に文化貢献として感謝》
「いや、文化貢献って俺……配線掴んでただけだぞ……?」
そう言いつつ、どこか嬉しそうなのが隠せない。
● 三人の会話
玲美と涼子が駆け寄ってくる。
スクリーンの前で、四人は自然と円を描くように集まった。
涼子は笑いながらミラの背中を叩く。
「すごいじゃんミラ、地球の賞だよ。
これ、もう歴史に残っちゃったね。」
玲美も、小さく頷きながら言う。
「うん。あの夜の音……地球にもちゃんと届いたってことだ。」
ミラは両手で顔を覆いながら、指の隙間からふたりを見る。
「……みんなでやったことだよ。
私だけの賞じゃない。
でも……嬉しい……!」
最後の言葉だけは、涙が滲むほどの素直な声だった。
スクリーンでは授賞式の映像が流れ続ける。
地球の人々が、火星の赤い都市の物語に拍手を送っている。
広場の火星市民たちも同じように手を叩き、
その響きは火星の朝の空気へ、静かに温かく溶けていった。
――火星と地球、その境界を越えた瞬間が、正式に歴史として刻まれたのだ。
火星ミネルヴァ市に夜が落ちると、街は静かになる。
昼間の騒ぎが嘘のように、赤い地平線の向こうへ音が溶けていく。
そんな中、涼子の携帯端末が小さな通知音を鳴らした。
「……地球から?」
画面をタップすると、ホログラムがふわりと浮かび上がる。
青白い光が涼子の頬を照らし、そこに映ったのは――
満面の笑みの少年。涼子の弟だった。
● 弟からのメッセージ
「姉ちゃん! 見たよ、地球のニュース!」
「火星でもアイドルみたいになってんじゃん!」
「今度こっち帰ってきたらさ、絶対サインしてよな!!」
少年らしい無邪気さが画面越しに弾んでいる。
地球の青い空が背景に映っていて、それは今の火星では見られない色だった。
涼子は思わず吹き出し、しかし――
同時に、目尻がじわりと熱くなる。
「もう……バカだなぁ。そんなの……」
笑いながら、涙がひと粒だけこぼれた。
● 涼子の決意
玲美と香菜が気づいて、そっと寄り添う。
「涼子、どうしたの?」
「……弟。相変わらずなんだよ。
でも、こんなふうに……誇りに思ってくれるなんてさ。」
涼子は涙を拭き、ゆっくりと息を吸い込む。
「……うん。帰るよ。
また地球にも帰る。
でも――」
ホログラムの向こうでは、弟が手を振っている。
「もう私は、火星の人間なんだ。
ここにも守りたい場所ができたの。」
その言葉を聞いて、玲美と香菜が自然と涼子の背中をぽん、と叩く。
「うん。涼子らしいね。」
「帰ってきても、ちゃんと火星に戻ってきなよ?」
涼子は照れくさそうに笑った。
「当たり前でしょ。
私のステージは、ここと――地球、両方なんだから。」
火星の夜空には星々が瞬き、
3人の笑い声が赤い石畳に優しく響いた。
離れても、つながっている。
地球と火星を行き交う光の帯のように。
翌朝――。
ミネルヴァ市の東の空が、ゆっくりと青白くほどけていく。
夜の名残が引き剥がされるように、薄い空気が光を受け取り、街の屋根に積もった赤砂に金の粒子を宿らせた。
火星の一日は、静かに始まる。
けれど、かつてのように“無音”ではなかった。
● 旧スタジオ跡、簡易ステージ
崩れかけた天井の隙間から入る朝の光が、三人の姿を淡く照らす。
玲美は歌詞帳を胸に抱え、半分眠ったような声で新しい旋律を口ずさむ。
地球で鍛え、火星で再び育てた喉は、乾いた大気に負けることなく澄んだ音を放つ。
涼子はギターを膝に、小さなネジを指で確かめるように調弦する。
音が合うたびに、彼女はちらりと朝焼けを見やり、
「きれいだな」と独りごとのように笑った。
香菜は録音端末の波形を確認しながら、二人の声の重なりに耳を澄ませている。
火星の空気に合う音量、声の伸び、ギターの余韻――
彼女の繊細な指は、環境そのものを一つの楽器として扱い始めていた。
● 小さな会話
涼子「なんかさ……火星で新曲作ってるの、変な感じだよね」
玲美「でも、この星に一番必要な曲なのかもしれないよ」
香菜「うん。“火星の音”として残るんだから」
朝の気温は低いが、三人の声はどこか暖かく響く。
この星で生まれた文化、この星に求められた音。
彼女たちはもう、“地球発のアイドル”ではなく――
火星に暮らす人々の一員として歌っていた。
● 街の目覚め
ステージの向こうで、街の人々が動き始める。
手にギターを持つ者。小さなスピーカーを抱える者。
酸素マスクに音符を貼った子どもたちが、笑いながら登校していく。
文化の夜明けは、確かに訪れた。
そして今は――
文化の朝が広がっていく。
三人の曲は、そんな火星の新しい景色とともに生まれていた。
● 最後のショット
玲美の声が高く伸び、涼子のギターが柔らかくそれを支え、
香菜の整えた音がひとつの波となって空へ昇っていく。
カメラは彼女たちの背から街へ、街から赤い大地へ、
さらに高く、薄い大気を突き抜けて宇宙へと離れていく。
火星の赤い砂漠に描かれる音の波紋は、
やがて宇宙空間を横切る光の帯へと変わり、
遠く青い星――地球へ向かって静かに流れていく。
その光が消える寸前、一本の旋律が残る。
“赤い星のシンフォニー”。
それは、火星に生きるすべての人々が奏で始めた、
未来への序曲だった。




