群衆の合唱――境界線を越えて
サビが始まった瞬間、
広場のどこかで誰かが、ほんの少し遅れて声を重ねた。
それは最初、控えめなさざ波だった。
だが次の瞬間――
二人、五人、十人……
波紋は一気に広がり、
セラ診療所前の広場全体が歌声の海へと変わっていく。
■“Red Line”の大合唱
火星の薄い大気を震わせるように、
数百人の声が、サビのフレーズを叫ぶでもなく、
祈るように、掴み取るように歌い始めた。
境界線なんて、もう恐れない。
この星で息をして、この星で夢を見る――。
ステージの上の三人の歌声と、
群衆の声が完全に溶け合い、
その境界が消えていく。
ステージも広場も、
“上”も“下”もなくなる。
ただ、火星に生きる人々の声が、ひとつの塊となって響く。
■玲美の変化――奪われた声が、世界を導く声へ
玲美はマイクを握りしめたまま、
自分の耳に返ってくる無数の歌声に目を見開く。
それは、かつて事故で声を失ったとき、
彼女が最も恐れ、最も願った“未来そのもの”だった。
喉の奥が熱くなる。
歌いながら、涙がこぼれそうになる。
――私の声は、もう一人じゃない。
ここにいる、みんなの声と繋がってる。
その感覚が胸いっぱいに広がり、
玲美の歌はさらに力を帯びる。
彼女が震える声で高音を伸ばすと、
広場から同じ音程の波が返ってくる。
まるで全員が、玲美の心そのものを歌っているようだった。
■火星初の“自発的合唱”
火星の歴史において、
計画でも強制でもなく、
誰かの指示ではなく、
ただ同じ気持ちに突き動かされて――
数百人が自然発生的に同じ歌を歌う。
それはこの星では初めての出来事であり、
その事実だけで胸が震えるほどの革命だった。
玲美の涙がライトにきらめく。
涼子はギターを弾きながら笑い、
イオンは深く息を吸い、音をさらに響かせる。
ステージと群衆が完全にひとつになった瞬間。
その光景は、まさに――
火星が初めて“自分の声”を手に入れた夜だった。




