アリ・ハリム博士の葛藤
管制室は、まるで心臓が不整脈を起こしたかのように、赤い閃光を不規則に脈打たせていた。
巨大ホロモニターには、次々と警告が重なっていく。
《未承認配信:再開兆候》
《通信フィルタに不明な解除信号》
《情報漏洩リスク:レベル3》
赤い文字が踊るたび、室内の空気がぎし、と軋むようだった。
職員たちは端末に身を寄せ、呼吸も忘れたように指を走らせる。
「……おかしい、フィルタが戻らない!」
「外部からのノイズです、これ――意図的な……!」
ざわめきが重なり、不安が見えない霧のように管制室を満たしていく。
そんな中、指揮卓の中央。
アリ・ハリム博士だけは、深い椅子に沈み、眉間を押さえたまま動かない。
背筋は伸びているのに、肩だけがわずかに落ちていた。
まるで、押し寄せる警告音の重みがそのまま背中にのしかかっているように。
部下Aが、半ば叫ぶように声をあげた。
「博士、外部からの再接続です!
すぐに停止命令を……!」
ほぼ同時に、別方向からも。
「広場の群衆も動揺しています。
早急な統制を取らないと――!」
だが――博士は、まるでその声が火星の薄い空気に溶けて消えたかのように、反応を示さなかった。
視線はホロモニターではなく、どこか遠く、
管制室の天井のさらに上、
火星の空のもっと先を見ているようだった。
停止命令を出すことは簡単だ。
それは今まで何度もしてきた“日常の仕事”。
だが、
博士の沈黙は、そう簡単には断ち切れないものを孕んでいた。
赤いアラートの光が、
彼の横顔を断続的に照らす。
その光は、揺れた。
博士の迷いの色のように。
アリ・ハリム博士の視界は、
目前のホロモニターではなく、もっと遠い“過去”に引きずられていた。
警告音が続く管制室の喧噪は、
いつしか薄いフィルターがかかったように遠のく。
――記憶が、呼び戻される。
白い研究棟。
まだ火星移住計画が「夢」と呼ばれていた頃。
若き日のアリ博士は、仲間たちと円卓を囲み、熱い瞳で語っていた。
若いアリ博士(記憶)
「火星に“文化的自立”を。
地球のコピーではなく、この星の呼吸を持つ社会に。」
「呼吸」――
その言葉は、彼の胸の中で今も確かに生きているはずなのに。
だが現実はどうだ。
赤い規制ライン。
通信の遮断。
市民の息さえ管理しようとする制度。
そして博士は、その仕組みを整備する側に回ってしまった。
“文化的自立”の理念は、
赤い砂嵐の下に埋もれ、形を失いかけている。
ホロモニターが現実へと博士を引き戻す。
そこには冷ややかな表示が点滅していた。
《通信ブロック 100%》
火星全域から、音が消されている。
ひとつの夢を守るために作ったはずのシステムが、
今は別の夢――
若者たちの歌、息、希望を締めつけている。
アリ博士は、ゆっくりと膝の上で拳を握った。
静かで、しかし深い怒りと後悔を噛みしめるように。
その拳は、
まるで長い間眠らされていた理念が、
ようやく再び脈を打ち始めたかのようだった。
アリ博士の胸に、
もう一つ――忘れられない記憶がふいに浮かび上がった。
それは、火星に来てから最も静かで、
そして最も“音”に満ちた瞬間。
診療所の白い廊下。
消毒液の匂いと、機械の規則的なビープ音。
外では火星の夜風が金属パネルを震わせていた。
事故直後、声帯を損傷し、
二度と歌えないかもしれないと診断された玲美が――
細い影のように壁にもたれ、
小さく、震える唇を開いた。
最初は、ほとんど“空気”だった。
息とも、音とも呼べない囁き。
だが次の瞬間、
その囁きが、かすかな旋律へと変わった。
声というより――祈りに近い。
折れそうで、でも折れない一本の糸。
アリ博士は、あのとき立ち尽くした。
胸の奥を、火星の冷たい風が吹き抜けたように感じた。
いや、それは風ではなかった。
彼女の声だった。
アリ博士(心の声)
あの声は……誰かを救った。
少なくとも、私は救われた。
その夜、博士は気づいたのだ。
“音”は、規制や数値よりもずっと人を生かす力を持つと。
そして――
つい先ほど、広場から流れてきた玲美たちの歌の《断片》。
検閲に遮断される前に、ほんの一瞬だけ届いたあの響き。
それは、あの診療所の夜と同じ強さで、
博士の胸を揺らした。
鼓動がひとつ跳ねる。
火星の風が、
また博士の心を吹き抜けた気がした。
――止める理由など、本当はどこにもない。
そう、はっきり感じた。
管制室の空気が、限界まで張り詰めていた。
赤い警告灯が、まるで心臓の鼓動のように室内を照らしては消える。
前線指揮官が卓越端末を叩きつける勢いで叫ぶ。
「博士!
これ以上の配信は――民衆を煽動しかねません!」
続いて別の職員が食い気味に声を上げる。
「統制が崩れれば、管理局そのものの責任問題に発展します!
今手を打てば最小限で済みます、博士!」
さらにもう一人が、焦燥を隠しきれないまま立ち上がる。
「決断を!
今すぐ回線を停止させなければ!」
言葉の矢が、次々とアリ博士へと突き刺さる。
端末の警告音が、まるで急かすように鳴り続ける。
しかし――
アリ・ハリム博士は、微動だにしなかった。
深く沈み込んだ指揮卓の椅子から、
ゆっくりと、静かに立ち上がる。
白衣の裾がさらりと揺れ、
そのささやかな動きが、なぜか室内全体の空気を変えた。
ざわっと、誰も動いていないはずなのに、
管制室全体がたった一瞬、呼吸をのみ込んだように感じられる。
全員の視線が博士に吸い寄せられる。
怒号も警告音も、今は遠い雑音のようだった。
アリ博士の瞳は、
恐れでも迷いでもなく――
何かを決めた者の、静かな光を宿していた。




