当局による配信停止命令
火星標準時、夜明け前。
セラ診療所前の広場には、いつもより多い人影が集まっていた。
薄い大気のせいで吐く息はすぐ白く曇り、
その白さが人々の緊張を可視化するように
ゆっくりと空へ溶けていく。
酸素塔のランプが、不規則に明滅した。
「チッ……チッ……」と点滅に合わせて内部の圧力が変わり、
その度に灯りが広場の影を長く伸ばす。
前列では、小さな boy が母親の手を
ぎゅっと握っていた。
母親もまた、冷たい指先で握り返す。
彼女の視線はスクリーンから一度も離れなかった。
周囲には、整備士のオイル染みた作業着、
医療スタッフの白衣、補給隊の制服、
そして一般居住区の人々の寒冷仕様コートが混ざっている。
地位も仕事も年齢も関係ない――
ただひとつ、“あの映像”を待つという意志だけが
すべての人間を同じ方向へ結びつけていた。
巨大スクリーンの黒い板面が、
ゆっくりと起動するように明度を揚げる。
その瞬間、広場全体が息を呑んだ。
映像がつながる、その刹那を。
自分たちの世界に“音”が戻る、その瞬間を。
誰もが、肺の奥まで固くして――
ただ、待っていた。
巨大スクリーンが、突然、夜気を押しのけるように光を放った。
ゆっくりとノイズが晴れ、画面の奥から――
玲美、涼子、香菜の三人が姿を現す。
荒れた配管跡のスタジオ。
壁面の錆が赤い非常灯に照らされ、
まるで火星そのものが脈打つように光が揺れる。
映像越しでも、熱があった。
音の前にだけ訪れる、あの張りつめた温度。
「映った……!」
「本当に、つながってる……!」
押し殺していたはずの声が、あちこちで漏れた。
子どもたちはスクリーンを指さし、大人は静かに息を呑む。
広場は、瞬間的にひとつの生き物のようにざわめいた。
画面の中で、涼子がギターを肩に乗せる。
その動きは迷いなく、まるでここが“本来の場所”だと告げるよう。
玲美はわずかに顎を引き、肺いっぱいに火星の薄い空気を吸った。
歌が始まる前の、彼女だけの祈りの時間。
香菜は録音機の波形を見つめ、
伸びた赤い光のリズムを指先でそっと確かめる。
――音が、生まれようとしている。
その瞬間、広場の空気は完全に静止した。
誰もが呼吸すら忘れ、
ただその“はじまり”を迎えようとしていた。
パッ。
まるで誰かが火星の夜を切り取ったかのように、
巨大スクリーンは一瞬で 黒 に塗りつぶされた。
さっきまで赤い非常灯に照らされていた三人の姿も、
ギターの光りも、
歌の息吹すら感じさせたあの空気も――
跡形もなく消えた。
広場に、ざわり、と冷たい動揺が走る。
「え……?」
「止まった……?」
「どうして……?」
誰かの声が闇の中に浮かんでは沈む。
酸素塔の薄い光が頼りなく点滅し、
その明滅がかえって不安を大きくした。
そして、泣き出しそうな小さな声。
「やだ……もっと聞きたい……」
母親が子どもの肩を抱こうとするが、
彼女自身も困惑で動きがぎこちない。
大人たちの表情は読み取れない。
だが、その固まった姿勢――
“まだ何かが戻るかもしれない”という希望に縋りついているのだと分かる。
誰も視線をスクリーンから外さない。
まるで、あの黒い闇の奥に
まだ音が生きていてくれることを祈るように。
闇に沈んだスクリーンの中で――
赤い一本線 が、稲妻のように横切った。
ジッ……という電子ノイズのあと、
画面に赤い警告ラインが何本も走り、
それが広場の顔色まで朱く染め上げていく。
【警告――未承認データ検出】
冷たい合成音声が、
火星の薄い空気を切り裂いた。
次いで浮かび上がる重々しいエンブレム。
ミネルヴァ情報局――
あらゆる通信の“呼吸”を握る機関。
【ミネルヴァ情報局】
「非承認データ流出を確認。
すべての回線を停止します。」
巨大スクリーンに無慈悲な文字が表示される。
《全域通信ブロック》
赤い非常灯ではない。
官製の赤だ。
生命ではなく、統制の赤。
その光が広場の誰もを照らし、
子どもも、大人も、医療スタッフも技術者も、
みな同じ冷たい色に染められて、
言葉を失って立ち尽くした。
――まるで、今しがた芽吹いた「音」が、
またしても締めつけられたかのように。
広場を覆ったのは、音よりも重い――
沈黙 だった。
スクリーンはまだ“停止”の赤を灯したまま。
その冷たい光が、市民たちの表情を均一に曇らせていく。
最初に漏れた声は、
誰のものかわからないほど弱かった。
「……嘘だろ……」
その一滴が落ちた途端、
堰を切ったように不安があふれ出す。
「なんで止められるんだよ!」
「また規制かよ……もうたくさんだ……」
「せっかく……せっかく繋がったのに……」
酸素マスク越しの息が、
白い霧となって群衆の中でゆらゆら揺れる。
まるで、希望が冷え切っていく様を
目に見える形にしたかのようだった。
ひとりの母親が、
凍えた手で子どもを抱き寄せる。
子どもは小さく震え、
スクリーンを見つめたまま、
壊れそうな声で言った。
「……聞きたかった……」
その言葉が、
広場全体の胸に、痛いほど静かに落ちた。
誰もが心の奥で、
同じ言葉を呟いていた。
スクリーンは依然、深い闇を映し続けていた。
まるでその黒さが、火星の夜そのものを飲み込んでしまったように。
冷たい風が、広場を横切る。
ひび割れた配管が、痛む喉のようにかすれた音を漏らす。
――ギィ……ヒュウ……
それは、いま失われたばかりの音楽の“亡霊”のようだった。
かつて耳を震わせたはずのメロディの代わりに、
ただ機械が軋むだけの音が、無情に空気を満たしていく。
市民たちは、動けなかった。
不満でも怒号でもない、もっと深い――
喪失の静寂 に縫いつけられたみたいに。
子どもを抱く腕も、
技術者のこわばった手も、
医療スタッフのマスク越しの息も、
すべてが“止められた瞬間”の中に取り残されている。
誰もがわかっていた。
いま目の前にある黒いスクリーンは、
希望が映っていた場所
そして
それを奪われた場所
その両方なのだと。
風がまたひとつ、
配管を悲しく震わせた。




