再生 ― 新たな息吹
火星標準時、午前三時三十分。
ミネルヴァ下層の旧配管区スタジオは、赤い非常灯だけを残して沈黙していた。
ついさっきまで鳴り響いていた熱が、まだ空気の奥に名残のように漂っている。
金属の壁は微かに震え、配管の隙間を抜ける風がその震えを撫でていった。
まるでスタジオそのものが息をしているようだった。
赤光は、薄暗い室内をゆっくりと流れていく。
汗の匂いと、焦げた機械油の残り香。
そのすべてが混じり合って、演奏の熱をまだ手放そうとしない。
――けれど、音はもう鳴っていない。
それでも、静寂が生きていた。
まるで、音が止んだこと自体が“次の鼓動”の準備であるかのように。
玲美たちの残した響きが、今もこの空間の奥で、ゆっくりと呼吸しているようだった。
最後の音が、赤い残響を残して消えていった。
スタジオの空気が、一瞬だけ――完全な無音になる。
金属の壁が鳴ることもなく、風すらも止まったかのようだった。
それはまるで、火星という惑星そのものが息を止めていたかのような静寂。
――そして、ひとつの音が生まれる。
誰かの、控えめな拍手。
乾いた音が空気を震わせると、それに応えるようにもうひとつ、またひとつと音が重なっていった。
拍手の波が広がっていく。
酸素マスクの内側で、吐息が白く曇り、非常灯の赤に照らされて溶けていく。
その一つひとつが、音楽の延長線のように響いていた。
音が呼吸に、呼吸が生命に――。
この瞬間、火星の空気の中で、その三つが完全に重なっていた。
拍手がゆっくりと収まり、スタジオに再び静寂が戻る。
非常灯の赤い明滅が、壁に映る影をゆるやかに揺らしていた。
涼子はマイクを握りしめたまま、深く息を吸う。
その息の音が、はっきりとマイクを通して響く。
彼女の肩がわずかに震え――けれど、その声には、もう迷いの色はなかった。
「……ここが、私たちのステージ。」
彼女の言葉に、誰もが息を呑む。
涼子は続けた。
「この星でも、夢を見ていいんだ。」
その瞬間、赤い光が一段と強く瞬く。
まるで火星そのものが、その言葉に呼応しているかのように。
観衆は誰も声を出さない。ただ、息をしている。
――その沈黙は、終わりを告げるためのものではなかった。
それは、始まりの音を待つ静けさ。
音のない音。
火星の空気に、新しい鼓動が生まれた。
涼子の言葉が静かに空気へ溶けていく。
誰もがその余韻を壊すことなく――ただ、そこに“生きて”いた。
玲美はゆっくりと顔を上げ、頬を伝う涙を手の甲で拭った。
その表情には、もう迷いの影はない。
震える笑みが、赤い光に照らされて滲む。
――この声が、誰かに届いた。
その確信だけが、彼女の胸を温かく満たしていた。
香菜は録音機の前にしゃがみ込み、停止ボタンに指をかける。
だが、小さな赤いランプがまだ点滅しているのに気づく。
鼓動のように――一定のリズムで。
彼女はそっと手を止め、静かに微笑んだ。
(……まだ、音は生きてる。)
その隣で、涼子がギターの弦を軽く撫でた。
細い音がひとつ、空気を震わせる。
まるで“ありがとう”と囁くような、柔らかな響き。
三人の間に、言葉はなかった。
けれどそこには、確かに“音”があった。
火星の静寂の中で、それは新しい生命のように呼吸していた。
拍手の波が、静かに広がっていった。
誰もが酸素マスク越しに息をしている。
その吐息が白く曇り、冷たい空気の中でふわりと漂う。
赤い非常灯の光がその白い粒を照らし、
それはまるで――火星の薄空に咲く“白い花”のようだった。
誰かが手を合わせる音が、また一つ。
そのリズムが空間の奥まで届く。
やがて、遠くの配管が低く鳴った。
風が通り抜け、金属の骨格を震わせる。
――まるで拍手に“返事”をするように。
都市の構造体が、共鳴していた。
観衆の息、機械の震え、そして残響する音楽。
それらすべてが重なり合い、火星という星そのものが
一つの巨大なステージとして“呼吸”を始めていた。
玲美たちの足元で、微かな振動が伝わる。
風、金属、息、音。
どれもが、今この瞬間だけは――区別のない“生命の音”だった。
スタジオ跡の薄暗い空間を見下ろすと、
赤い非常灯の明滅に照らされ、三人の影が長く伸びている。
玲美、涼子、香菜――。
それぞれの影が少しずつ寄り添い、
やがて一点で交わり、一本の“線”となった。
それは、確かに“Red Line”。
この星に刻まれた、彼女たちの鼓動の痕跡。
光が徐々に弱まっていく。
赤いランプの点滅が、まるで心臓の鼓動のように
ゆっくり、ゆっくりと間隔を広げていく。
画面が暗転していく中、
最後に残ったのは――微かな“風の音”。
それは音楽の残響ではなく、
火星という星が、静かに息をしている音だった。
赤錆びた配管の迷路――その奥深く、
わずかに滲む光が、暗闇の中で脈を打っていた。
そこには、彼女たちが残していった即席のステージ。
古いラジオと傷だらけのマイクが並び、
赤いランプが、まだ消えぬ命のように小さく瞬いている。
風が通り抜けるたび、
「チリ……ヒュウ……」と、鉄の隙間がささやく。
それはまるで――この星そのものが、
彼女たちの音を思い出しているかのようだった。
画面がゆっくりとフェードアウトしていく。
その上に、静かなテロップが浮かぶ。
“息がある限り、音は死なない。
そして、夢もまた――再生する。”
最後に、赤いランプがひときわ強く瞬いた。
その光が消えると同時に、
火星の風だけが、静かにその場を通り抜けていった。




