拡散 ― 世界の反響
地球時間、午前六時一一分。
都市の通信解析センターはまだ夜の名残を引きずっていた。
照明は最低限、サーバールームの光だけが金属の床を冷たく照らしている。
ラーニャは机に肘をつき、半分眠気まじりの目でタブレットの解析画面を眺めていた。
彼女の仕事は、惑星間通信の異常波形を監視すること。
普段なら、ただの雑音や宇宙線の反射ログばかりだ。
けれどその瞬間――小さな通知が画面を横切った。
《RED LINE / LIVE FEED (MARS ORIGIN)》
「……なに、これ?」
彼女は無意識に指で拡大した。
最初はノイズ混じりの灰色の画面。波形が震え、音が弾ける。
だが、その奥から――かすかな旋律が浮かび上がった。
低く、温かく、そして遠い。
“Red Line”――そう、まるで心臓が動き出すようなテンポ。
ラーニャの目がゆっくりと見開かれていく。
通信ラグ、圧縮データ、光速遅延。どれを計算しても、これはあり得ない。
それでも――音は、確かに生きていた。
「……火星から、生配信? そんなはず……ない。」
声がかすかに震える。
彼女は一度だけ迷い、指先を止めた。
けれど次の瞬間、決意のようにタブレットをタップする。
――リツイート。
わずか一秒のクリック。
その動作が、静寂の海に投げられた小石のように波紋を広げていく。
通知音が、ひとつ、またひとつと世界中の端末で鳴りはじめる。
そして、誰も知らないうちに――
“火星の音”が、地球へ届いた。
SNSのタイムラインが、夜明け前の空のように一斉に輝き始めた。
ひとつのリツイートを皮切りに、無数の通知が爆発的に広がる。
ラーニャの投稿に添えられた短い言葉――
「見て、火星で“音”が生き返ってる。」
その一文が、アルゴリズムを突き抜けて世界を走る。
数秒も経たぬうちに、コメントが連なっていく。
「#酸素よりも歌を」
「この音、泣ける……なんでこんなに温かいの?」
「火星の空気が震えてる……」
「どこのスタジオ? 本物の配信なの?」
「まるで星が呼吸してるみたい」
スクロールの速度に指が追いつかない。
再生回数は指数関数のように跳ね上がり、ハッシュタグが瞬く間にトレンドの頂点へ。
――ニューヨークの高層ビル群。
夜勤明けのタクシー運転手が、停車中のモニターでその映像を見つめている。
ガラス越しに映る赤い光が、街のテールランプと重なる。
――ムンバイの市場。
商人の娘が古いスマートフォンを掲げ、スピーカーから流れる“Red Line”の旋律に聞き入っている。
周囲の喧噪が一瞬、音楽に飲み込まれ、沈黙が生まれる。
――東京の深夜カフェ。
ノートPCを前にした若いアーティストが、息を呑むように画面を見つめている。
彼のイヤホンには、確かに火星の息が届いていた。
――ケープタウンの海岸。
潮風の中で通信士の少年がヘッドセットを外し、空を仰ぐ。
遠くに見える赤い星が、ほんの少し明るく瞬いた気がした。
地球全体が、見えない一本の“赤い線”で結ばれていく。
それは言葉ではなく、共鳴。
沈黙していた火星が、いま――再び**「聴かれる星」**になった瞬間だった。
そのころ――火星の夜は、深く、静かだった。
ミネルヴァ下層・旧配管区スタジオ。
赤い非常灯が、途切れ途切れに明滅している。
まるで、空間そのものが呼吸しているように。
演奏を終えた三人は、まだその余韻の中にいた。
壁を伝って、金属の軋む音が遠くへ消えていく。
空気は薄く、けれど確かに“音の残り香”を抱えていた。
玲美は、閉じた目のまま小さくハミングした。
ほんの一音――だが、それは火星の空気を優しく震わせる。
涼子は膝の上でギターを撫で、指先で弦を軽く弾いた。
「キン」という細い音が、空間に線を描く。
香菜は端末を覗き込み、波形モニターに目を留める。
グラフは、まだゆっくりと脈を打っていた。
上がり、下がり――まるで誰かの胸の鼓動のように。
涼子:「……まだ、生きてる。」
香菜:「ええ、音が。ちゃんと。」
玲美が微笑む。
その表情には、達成でも誇りでもなく、ただ静かな確信があった。
彼女たちの中で“何か”が確かに生まれ、今も息をしている――そう感じられた。
スタジオの外では、風が配管を通り抜けて低く唸っていた。
誰も知らないうちに、その音は遠くへ流れ、空へ、街へ、そして……宇宙へ。
三人は知らない。
その小さな“呼吸”が、いま地球で無数の心を揺らしていることを。
彼女たちの静寂の向こうで、もうひとつの世界が――聴いていた。
映像が、静かに――しかし確かに――呼吸を始める。
地球。
深夜の都市。眠らないネットの海の中で、
ひとつの動画が無数のスクリーンを照らしていた。
ラーニャのタブレット、ニューヨークのカフェのモニター、
東京の地下鉄の広告ディスプレイ、
そして誰かの手の中のスマートフォン。
火星。
ミネルヴァ下層。赤い光が弱く瞬き、
配管の間を抜ける風が、低い拍を刻んでいた。
〈チリ……カン……チリ……カン……〉
残響はまだ消えず、まるで惑星そのものが
音を覚えているかのように続いている。
映像は交互に切り替わる。
地球のスピーカーから流れる音と、
火星の配管が放つ低いリズム。
両者のテンポが――ゆっくりと、重なっていく。
その瞬間、
地球と火星が“同じ拍”で呼吸を始めた。
人と惑星、遠く離れた空気の中で、
同じリズムが脈打つ。
SNSの画面が次々と更新される。
「#RedLine」
「#酸素よりも歌を」
「#火星の呼吸」
「#生命の音」
光る文字列が、デジタルの海で波紋のように広がる。
無数の心が、無数の時間帯で――
けれど一つのビートの上で動き始める。
地球の青と、火星の赤。
ふたつの世界が音で繋がった。
それは通信でも、信号でもない。
ただ“生きている”という証。
音は、空間と時間を超えて、
ひとつの鼓動になっていた。
夜明け前の地球。
まだ青く染まりきらぬ空の下、
雲の端が――ふいに、赤く染まりはじめる。
都市の屋上。
街灯が一つ、また一つと消えていくなかで、
空の赤が静かに濃くなっていく。
それはまるで、遠く離れた火星の空が
こちら側へと滲み出してきたかのようだった。
音は、もうどこにでもあった。
ラジオ、スマートフォン、カフェのスピーカー、
車内モニター。
誰かが再生し、誰かが共有し、
誰かがただ耳を澄ませている。
SNSのトップ画面には、
無数の投稿が赤い帯のように流れ続けていた。
「#RedLine」「#火星の呼吸」「#生命の音」
そしてその最上部、固定された一文。
「火星で“息”が始まった。」
――ラーニャの投稿。
誰もが画面を見上げたまま、
言葉を失っていた。
だがその静寂の中で、世界は確かに“聴いていた”。
東の空。
赤く染まる雲が、ゆっくりと朝日を迎える。
その色は火星の赤と同じ。
そして、音の色――生命の赤。
音が、世界の夜を越えて、
新しい朝を連れてきた。
――ミネルヴァ下層、旧配管区。
深い静寂が降りていた。
演奏を終えたスタジオ跡には、わずかな風と、
赤い非常灯の点滅だけが残っている。
録音機のランプが、まだ小さく脈打っていた。
〈ピッ……ピッ……〉
まるで、この空間そのものが呼吸を続けているように。
玲美は、目を閉じたまま息を吸い込む。
そして、吐き出すように小さく囁いた。
「……今、誰かが聴いてる気がする。」
涼子がギターをそっと置き、
香菜がモニターに映る波形を見つめる。
もう音は止まっている――
けれど、線はまだ揺れていた。
ゆっくりと、穏やかに。
それは“終わり”ではなかった。
音の残響が、空気を震わせ、
どこか遠くへと流れ続けている。
三人の知らぬうちに、
その“誰か”は、すでに地球の何百万人もの耳へ届いていた。
静寂の中で、ランプがひときわ強く点滅する。
火星の赤が、かすかに息をする。
映像が、SNSのインターフェース越しに静かにフェードアウトしていく。
コメントの流れが止まり、再生マークが灰色に変わる。
画面の隅に――
〈LIVE 終了〉の通知。
地球。
ラーニャは暗い管制室でひとり、タブレットの画面を見つめていた。
静寂の中、彼女の顔を照らすのは、モニターの赤い残光だけ。
少しの間、何も言わずに息をつく。
そして、ふっと微笑んだ。
「いい終わり方じゃない。――まだ、始まりだ。」
彼女は端末を閉じる。
画面が闇に沈む瞬間、
ほんの一拍だけ――ノイズ混じりの“風の音”が再び鳴った。
その余韻の中で、
黒い画面に小さく赤い文字が浮かび上がる。
【Red Line / LIVE - Connected】
“The rhythm reached home.”
――火星のリズムは、ついに地球へ届いた。
そして、物語はまだ終わらない。




