拡散 ― 音が世界を包む
火星標準時、午前二時三十分。
ミネルヴァ・シティは、夜の深みに沈んでいた。
赤い酸素灯が一定の間隔で瞬く。
その光は、居住区の廊下にも、整備通路の壁にも、酸素塔の外壁にも――どこまでも同じテンポで波打つように広がっていく。
居住区の窓の隙間から漏れる光が、まるで心臓の鼓動のように呼吸を繰り返す。
整備区の鉄骨が低く唸り、配管の奥で共鳴が続く。
酸素塔の上空では、灯が風に揺れながらゆっくりと点滅し、そのリズムが都市全体へと伝わっていく。
――それは偶然ではなかった。
赤い光は、“Red Line”の拍に呼応していた。
街そのものがひとつの生命体であるかのように、
光と空気と金属が、同じテンポで脈を打っている。
静寂の中で、火星は確かに“息づいていた”。
ミネルヴァ下層の集合住宅。
薄い壁越しに、微かな音が流れ込んでいた。
風のようでもあり、歌のようでもあり――それは、この星では滅多に聞かれない“柔らかな響き”だった。
寝間着姿の少年が、ドアの隙間からそっと顔を出す。
廊下には赤い酸素灯の光がゆらめき、その明滅が少年の瞳の奥で小さく跳ねた。
〈ヒュウ……チリ……カン……〉
音が、壁の中から呼吸するように伝わってくる。
彼は耳を澄まし、胸の前で両手をぎゅっと握りしめた。
「……これ、音?」
つぶやいた声は、自分の心臓の鼓動に溶けた。
背後で母親が現れる。
彼女は言葉もなく、少年の肩に手を置いて立ち止まった。
二人は並んで、ただその音を聴く。
赤い光が再び灯り、風が細く鳴る。
それは、機械でも放送でもない――“生きている音”。
廊下の空気が、まるで呼吸を取り戻したかのように震えていた。
整備通路の奥、薄暗い照明の下で、男が手を止めた。
レンチを握ったまま、彼は酸素パイプのバルブに触れていた――だが、そこから微かに漏れる“音”に気づく。
〈ドゥン……カン……ドゥン……〉
低いリズムが金属を伝い、床のボルトが小さく震える。
通信端末のスピーカーからは“Red Line”の音が流れていた。
風とノイズと声が、混ざり合いながら響いてくる。
整備員は、ゆっくりとヘルメットを外した。
額に滲んだ汗を手の甲で拭い、息を吐く。
だがその顔に浮かんだのは疲労ではない――安堵に似た笑みだった。
「……火星が、息してる。」
誰に言うでもなく、金属の壁に向かって呟く。
次の瞬間、遠くの配管がかすかに鳴動した。
〈ゴウン……〉と重く響くその音が、まるで応えるように通路を駆け抜ける。
振動は壁から天井へ、さらに奥の整備区画へと伝わっていく。
酸素の流れる音と“Red Line”のリズムが重なり、
都市の骨格そのものが――ひとつの楽器のように、静かに鼓動を始めていた。
外壁の上を、赤い砂がかすかに滑っていた。
酸素塔の監視デッキでは、二人の作業員が計器を見守っている。
風は冷たく、通信機のノイズが耳を掠める。
そのノイズの奥に――旋律があった。
〈ヒュウ……チリ……カン……〉
風の中に混ざるように、“Red Line”の音が届いていた。
最初は機器の誤作動かと思った。だが違う。音が、確かにリズムを刻んでいる。
「……おい、聞こえるか?」
「誰だ? 流してるのは。」
「知らねぇ。でも……いい音だ。」
二人は互いに笑い合う。
ヘルメット越しに見えるその表情は、どこか懐かしげだった。
やがて酸素塔のライトが点滅を始める。
そのテンポは、音楽の拍と完全に一致していた。
赤い光がリズムに合わせて明滅し、塔の外壁を包み込む。
――次の瞬間、反射した光が上空へと走った。
風に乗って広がるように、赤い脈動が夜空を染めていく。
遠くの都市の灯りがそれに呼応し、点滅の波が連鎖していく。
まるで火星全体が、一つの巨大な“心臓”として鼓動しているかのようだった。
その鼓動は、誰にも止められなかった。
観測ドームの内部は、冷たく静まり返っていた。
機器の稼働音すら聞こえない夜。
ただ、薄い空気の向こうで、火星の地平線が赤く脈打っている。
天文学者は、長時間の観測を終え、望遠レンズから視線を外した。
計測データを確認しようとしたそのとき――
通信端末のランプが小さく点滅する。
〈……ヒュウ……チリ……カン……〉
微弱なノイズと共に、旋律が流れ出した。
彼は眉をひそめ、ヘッドホンを外す。
それでも、音は空気を震わせている。
風が鳴らす金属音、遠くの低音、そして――かすかな歌声。
男はゆっくりとガラス越しに外を見やった。
地平線の向こう、都市のあたりに赤い光が揺れている。
酸素塔の灯りだろうか。
だが、それは不規則ではなかった。
一定のテンポで――まるで、呼吸するように点滅している。
「……まるで星が、歌ってるみたいだ。」
自分の声が、ドームの中に静かに響いた。
それは、誰に向けられた言葉でもなかった。
ただ、目の前で確かに“生きている”火星に対する、
ひとつの祈りのような囁きだった。
彼の背後では、観測機のモニターに波形が現れていた。
規則的に並ぶ赤い線――
そのリズムは、都市の灯りと完全に同期していた。
遠ざかる視界。
ドームの天井を抜け、空撮のようにミネルヴァ・シティ全体を俯瞰する。
街の輪郭が、赤い呼吸に包まれていた。
居住区の窓、整備通路のランプ、酸素塔の警告灯――
それらすべてが、まるで心臓の鼓動のように、ひとつのテンポで明滅している。
最初は点のようだった光が、やがて線となり、面となる。
赤い光の波が都市を横断し、峡谷の壁を照らし、遠くの砂丘までも染めていく。
その律動は、確かに「音」だった。
可視化されたメロディ。
生命の証。
空気の薄い世界で、風がそっと揺れる。
その中に、低く響く共鳴音が混ざっていた。
耳ではなく、胸の奥で聴く“音”。
それが惑星全体を包み込み、砂の一粒にまで伝わっていく。
――火星が、息をしている。
赤錆の大地が微かに震え、
空に散った塵が光を受けて瞬く。
まるで、惑星そのものが目を覚まし、
ゆっくりと呼吸を始めたかのようだった。
その呼吸のリズムに合わせ、
画面の隅で“Red Line”の文字が小さく点滅を繰り返す。
今、確かにこの星は――生きている。
その音は、もはや三人だけのものではなかった。
最初の一音が、マイクから配管へ、配管から都市へ――
そして、都市から惑星全体へと滲み出していった。
個室の中で、整備通路で、塔の外壁で、
人々は言葉も交わさず、ただその音に身を委ねている。
彼らの呼吸は、知らず知らずのうちに同じテンポを刻み始めていた。
鼓動と鼓動が共鳴し、やがてそれが街のリズムとなる。
“Red Line”。
それは単なる楽曲の名前ではなかった。
火星の大地に流れる新しい血流、
人と星とをつなぐ“生命の拍動”そのものだった。
長く沈黙していた都市が、音によって再び目を覚ます。
錆びついた構造物が、風とともに共鳴し、
乾いた大気がまるで肺のように音を吸い込み、吐き出す。
誰かが歌い、誰かが聴き、
そしてその輪が広がっていく。
人々はまだ互いを知らずとも――
同じテンポで、生きている。
その拍は、確かにこの星の鼓動。
“Red Line”が刻むのは、火星という名の生命の証だった。




