過去とメール
部屋の灯りは落とされていた。
机の上に置かれたノートPCの画面だけが、淡い光を放ち、
その青白さが涼子の頬を冷たく照らしている。
カーテンの隙間から、街灯の赤い光が差し込み、
壁の上で小さく揺れた。
静寂の中で、USBケーブルを差し込む音が響く。
外付けハードディスクのランプが点滅し、
やがてデスクトップに“FUUMI_DATA”のアイコンが現れる。
涼子はゆっくりとマウスを握る。
クリックするたびに、古びたフォルダがひとつ、またひとつ開いていく。
どれも見覚えのある名前――
過去の自分が積み重ねてきた時間の断片。
そして、その中に一つだけ輝くフォルダがあった。
“風海涼子デビューライブ(2019)”
涼子の指が止まる。
少し息を飲み、カーソルをその上に合わせて――クリック。
スピーカーからざわめきが流れた。
歓声、拍手、そして音楽。
モニターの中で、若い自分がマイクを握って笑っている。
照明に照らされたステージ。
客席には、揺れるピンク色のペンライト。
カメラのフラッシュが白く弾け、
その度に“風海涼子”は無邪気に手を振った。
――それは、まぎれもなく“夢の中の自分”。
画面の中の彼女は、
世界のすべてを手に入れられると信じていた。
声も、光も、未来さえも。
だが今、その姿を見つめている自分の頬には、
かすかな涙の筋が光っていた。
“あの時は、本気で信じてた。
世界だって、変えられるって。”
涼子の右手がマウスを握り直す。
ポインタが、動画のアイコンの上を滑り――
「削除」を選択。
確認ウィンドウが現れた。
“このファイルを完全に削除しますか?”
カーソルは“はい”の上で止まる。
その小さな枠の中に、自分の手の震えが映っているようだった。
息を吸い、吐く。
唇がかすかに動く。
「……消せない。」
マウスから力が抜けた。
指が離れ、クリック音は鳴らなかった。
画面の中の笑顔が、ふっと闇に溶けるように消える。
モニターは真っ黒に戻り、
部屋にはPCの冷却ファンの低い音だけが残った。
その音が、まるで過去の残響のように、
静かに、長く、響いていた。
ハードディスクのランプが消えるのと、ほとんど同時だった。
机の上のスマホが、かすかに震える。
短く、控えめな通知音。
この部屋の静けさの中では、それだけで心臓が跳ねるほど大きく響いた。
涼子は、涙の跡を袖でぬぐいながら画面を覗き込む。
新着メール。
件名にはこうあった。
「未来の星プロジェクト 応募要項」
「……なにこれ」
思わず声が漏れる。
差出人は「Minerva Enterprises」。
聞いたこともない会社名だった。
最初に浮かんだのは、警戒の感情。
“どうせ怪しい勧誘かスカウト詐欺の類だろう”
そう思いながらも、親指が自然に本文を開いていた。
そこに書かれていたのは、たった一文だけ。
「あなたの夢を、新しい星で咲かせませんか?」
沈黙。
涼子は眉をひそめ、
けれど次の瞬間、ふっと小さく笑ってしまう。
「新しい星、ね……」
机の上のマイクケースに目をやりながら、
小さく呟いた。
「……上手いこと言うなぁ。」
文章は芝居がかっていて、胡散臭い。
それでも、“星”という言葉が、
どこか胸の奥を優しく叩いた。
スクロールすると、
“応募はこちら”のリンクが現れる。
淡い青のハイパーリンクが、
闇の中で小さく瞬いていた。
涼子は一度、
そのメールを右へスワイプした。
「削除しました」と表示され、
アイコンが淡く消える。
指を離したあと、
ほんの数秒、彼女はぼんやりと画面を見つめていた。
そして、無意識に親指が動く。
“元に戻す”。
メールが再び受信箱に戻る。
その動作に、自分でも気づいていなかった。
“星、か……”
涼子は小さく呟き、
夜の静寂の中で、
もう一度、遠くの空を思い浮かべた。
椅子の軋む音が、静寂の中でひときわ大きく響いた。
涼子はゆっくりと立ち上がり、
カーテンの端を指先でつまむ。
厚手の布が、するりと開く。
冷たい夜気が、途端に部屋へ流れ込んだ。
頬をかすめる風は少し湿っていて、
街の匂いと冬の気配を運んでくる。
眼下に広がる街は、無数の灯の海。
赤や青、白のネオンが混ざり合い、
その光の粒たちは、どれも人工的で、どこか冷たかった。
けれど――空の奥に、ひとつだけ異質な光があった。
淡い赤。
他のどの光よりも静かで、けれど確かに瞬いている。
「……あれ、火星かな」
呟いた声が風にさらわれる。
その赤い点は、まるで答えるように、ほんの少しだけ瞬いた気がした。
涼子はベランダの手すりに手を置き、
目を細めてその星を見つめ続ける。
届かないほど遠いのに、
なぜか、その光だけは少し近く感じた。
胸の奥が、ゆっくりと疼く。
“どこの星でもいい。
もう一度だけ、歌えたら。”
息が白くほどける。
涼子はそのまま、夜空に視線を預けた。
まるで、見えないステージライトを探すように。
再び、机の前に戻る。
ノートPCのモニターが、闇の中で淡く光っていた。
画面には、さっきのメールに記載されていた応募フォーム。
見慣れない英語混じりのサイトデザインが、不思議と現実離れして見える。
カーソルが点滅している。
その小さなリズムが、心臓の鼓動と重なるようだった。
――名前:風海涼子
――年齢:24
――職業:フリー(元アーティスト)
キーボードを打つ音が、部屋の静けさに溶けていく。
タイプを終えたあと、涼子は手を止めた。
画面の右下には、赤い枠で囲まれた“送信”ボタン。
その光が、まるで何かの起動スイッチのように見えた。
押せば、何かが確実に変わってしまう――
そんな予感と、微かな怖さ。
けれど、もう失うものなんてなかった。
涼子は、かすかに唇を動かす。
「……たとえ、どこの星でも。」
クリック。
小さな“ピロン”という電子音が鳴る。
それはまるで、宇宙の彼方へ信号を送るような、
静かで確かな音だった。
画面に浮かぶ文字――「送信完了」。
その白い文字を見つめながら、
涼子の頬を、モニターの光が淡く照らす。
青白い光の中で、彼女の瞳の奥に、
ほんの少し――
あの頃の輝きが、確かに戻っていた。




