灯る希望
配管区の奥に、音の残響が細く、細く、消えていった。
涼子の指先が弦の上で静止する。
最後のコードは、まるで心臓の鼓動を模したように――ひとつ、ふたつ、と空気に滲んで、やがて沈黙へと溶け込んだ。
金属の壁に触れていた空気が震えを止め、空間が“無”になる。
香菜の録音機のランプが、一度だけ赤く点滅して「ピッ」と短い音を鳴らした。
それは録音の終わりを告げる合図であり、同時に、“何かが始まる直前の静けさ”のようでもあった。
涼子はギターを抱えたまま、深く息を吐いた。
香菜はモニターに映る波形が静止するのを見届け、そっとスイッチを切る。
玲美はノートを閉じ、膝の上で両手を重ねる。
――音が消えたあと、残るのは、わずかな呼吸音と、光。
赤い照明の明滅が壁をかすめ、漂う埃の粒を照らし出す。
それらが光の中でゆらゆらと踊り、まるでこの場所に宿った“音の残像”のように揺れていた。
その瞬間、誰も動かず、誰も話さない。
時間が、ほんの数秒――いや、永遠のような一瞬――止まった。
音の終わりが、静寂の中で確かに“生きている”と、三人は感じていた。
涼子はゆっくりと息を吐き、手の中のギターを膝の上に横たえた。
弦の震えはもう止まっている――だが、その静けさの奥で、まだ何かが脈打っている気がした。
香菜は録音機のスイッチを落とし、マイクの上に積もった薄い砂を指でそっと払った。
その仕草はまるで、眠る小動物を撫でるように優しい。
彼女の耳には、まだ風の音が残響している。
「ヒュウ……チリ……」――もう再生していないのに、音は確かにこの空間にいた。
玲美はノートを閉じ、静かに顔を上げた。
白紙のままのページが、赤い照明の反射を受けてほのかに光る。
それは“まだ書かれていない物語”のようで、だからこそ美しかった。
三人の視線が、ふと、ひとつに交わる。
誰も言葉を探さない。
この沈黙の中にこそ、今の“全て”があった。
玲美が、小さく息を吸い込み、ためらいなく言った。
「……今の、残しておきたい。」
その声は、震えていない。
失うことを恐れていた彼女の声が、初めて“何かを残す”意志を宿していた。
香菜が穏やかに笑い、録音機の側面を軽く叩く。
赤いランプが小さく点滅して、まだ温もりを残していることを告げる。
「もう録ってるよ。全部、“この星の拍”ごと。」
涼子がそれを聞き、口元を緩めて頷いた。
その目には、安堵と確信が混ざっていた。
「――じゃあ、これは“最初の心臓音”だね。」
静かな配管区に、三人の微笑みだけが灯る。
風がもう一度通り抜け、“ヒュウ……”と鳴る。
それは、まるでこの星自身が同意したような、優しい呼吸の音だった。
旧配管区の暗闇に、かすかな光が瞬いていた。
赤い非常灯――それだけが、この場所の夜を支えている。
その灯りが、周期的に「チッ……チッ……」と点滅し、
三人の影を、壁の上でゆるやかに揺らめかせていた。
錆びた金属の壁に映る影は、
まるで誰かの“過去”と“未来”が重なり合っているように見えた。
涼子のギターを抱える姿、香菜の録音機を見守る眼差し、
そして玲美のノートを抱く横顔――
その一つひとつが、かつて失われた“音楽”の記憶を取り戻していく。
もはや沈黙は、ここにはなかった。
かわりにあるのは、“次の音”を待つ静かな呼吸。
三人の胸の上下が、わずかに揃っている。
その呼吸が、この場所の新しいリズムになっていた。
そして――
香菜の録音機が、ひときわ大きく赤く点滅する。
「ピッ」
それはノイズでも、機械の信号でもなかった。
まるで、火星そのものが息を吸い込み、
ひとつ、確かな“心拍”を打ったかのように。
赤い光が配管の奥へと反射して、
金属の壁をゆっくり染め上げていく。
その輝きは、わずかでも確かに“希望”の色をしていた。
照明はすでに落ち、残るのは一つ――ラジオの赤いランプだけ。
その光が、一定の間隔で「チッ、チッ……」と点滅を繰り返す。
暗闇の中で、それはまるで誰かの鼓動のように脈打っていた。
配管の奥には、もう音はない。
風も止み、弦も沈黙し、声も消えている。
だが――完全な無音ではなかった。
わずかに、耳の奥で響く“拍”。
火星という星が、自らの肺で息を吸い込み、
再び呼吸を始めたような、かすかなリズム。
砂埃に覆われた古い筐体、その中でランプが淡く揺らめく。
そして、画面下に文字が浮かび上がる。
【Red Line / awakening_01】
“the planet breathes again.”
その瞬間、すべての音が消える。
風も、機械の唸りも、遠い金属の軋みさえも。
ただ、最後に一度だけ――
「トン……」と、心臓のような微かな鼓動が響いた。
光がゆっくりと消え、闇の中に赤い残光だけが残る。
――そして、物語は静かに“呼吸”を止める。




