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MARS☆IDOL ☆赤い星のシンフォニー☆  作者: 南蛇井


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36/61

音の芽吹き ――「Red Line」誕生の瞬間

涼子の指先が、古びたギターの弦を軽く撫でた。

 ――ジリ。

 擦れるような、乾いた音。

 まだ音階になりきれないその一音が、冷たい空気を震わせ、廃配管区の壁をわずかに共鳴させた。


 涼子は眉をひそめ、チューニングペグを回す。金属がきしみ、弦が微かに鳴いた。

 音は不安定だ。だが、それでもいい。ここでは“正しさ”よりも、“響き”がすべてだった。


 向かいで、香菜が録音機のメーターを覗き込んでいる。

 風の音、金属のうなり、そして涼子の弦。

 その三つが重なり合う瞬間を、まるで宝石の位置を探すように、彼女は慎重に調整を続けていた。

 ランプの赤が、彼女の頬を断続的に照らす。


 玲美はノートを開いたまま、ペン先を紙に押し当てて止まっていた。

 書こうとする言葉が、まだ形にならない。

 ただ、空気に漂う音の粒だけが、彼女の心の奥に何かを叩きつけてくる。


 ――まだ曲ではない。

 けれど、この“始まりの音”が、何かを呼び覚ます気配があった。


 涼子がもう一度、弦を弾く。

 錆の匂いを含んだ風がその音を運び、壁の奥で低く反響する。


 玲美のまつげがわずかに震えた。

 音が、静寂を切り裂く――。



配管の奥から、低く長い風の音が響いた。

 「ヒュウ……チリ……」

 金属の継ぎ目を通り抜けるたび、風はかすかに音を変える。

 その不規則な間――沈黙と音の揺らぎ――が、なぜか一定のリズムを刻んでいるように感じられた。


 涼子の指先が、無意識に弦を押さえる。

 C。

 Am。

 F。

 G。

 それぞれのコードが、風の拍に合わせるように鳴り始める。

 まだたどたどしく、ところどころで音が詰まる。

 けれどその“ズレ”さえも、火星の空気に調和していた。


 香菜の録音機が小さく唸りを上げる。

 モニターに波形が浮かび上がり、赤いラインが瞬く。

 【beat detected】

 人工の表示が、まるで“星の心拍”を読み取ったように点滅する。


 玲美は息を呑む。

 音が――生まれている。

 誰の意図でもなく、この場所と、風と、彼女たちの手から。


 「ヒュウ……チリ……」

 その合間に、ギターのコードが溶ける。

 風がリズムを刻み、音がそれに応える。

 火星の空気が、初めて“拍”を持った瞬間だった。


 玲美は、知らず知らずのうちに顔を上げていた。

 目の前には、赤い照明の下でギターを抱える涼子と、録音機に耳を傾ける香菜。

 二人の間を通り抜ける風が、ゆるやかな拍を刻んでいる。

 そのリズムが、胸の奥のどこかを揺さぶった。


 ペンを握っていた手が、膝の上で力を失う。

 代わりに、唇がわずかに動いた。

 最初はただの息――掠れた、声にもならない吐息。

 「……ん……ふぅ……ふぅ……」

 震えるような響きが、赤い空間に零れ落ちる。


 それは言葉の形を持たない“音”だった。

 けれど、その微かな震えが、確かに旋律を描いていく。

 まるで彼女の胸の奥に眠っていた“詩”が、声という形で滲み出してくるように。


 香菜が一歩前へ出て、マイクの角度を静かに変える。

 ノイズ混じりの空気の中で、玲美の声が録音機に吸い込まれていく。

 「ジリ……チリ……」――風音と混ざりながら、かすかな歌が記録される。


 涼子はギターを止めない。

 弦の響きが玲美のハミングに寄り添い、

 香菜の録音機がその“生の音”を受け止める。


 この瞬間、三人の音が初めてひとつになった。

 それはまだ“歌”と呼ぶにはあまりに未熟で、儚くて、脆い。

 ――けれど確かに、ここから始まっていた。

 言葉になる前の“歌”。

 火星の風に生まれた、最初の息づかい。

涼子の指先が、玲美のハミングに呼応するように動き始めた。

 ギターの弦が静かに鳴る。

 リズムはわずかに遅く、まるで玲美の呼吸を追いかけるようなテンポ。

 その音の合間――“隙間”が、風を、空気を、そして静寂そのものを抱きしめていた。


 香菜は録音機のレベルメーターを細かく調整する。

 赤いランプが微かに明滅し、配管の中の反響を拾っている。

 「チリ……ヒュウ……」

 金属の軋み、風の通り、三人の呼吸音――

 それらがひとつの“伴奏”として、音の中に溶けていく。


 玲美は目を閉じたまま、唇を震わせた。

 もうペンもノートもいらなかった。

 言葉が生まれるより先に、声が溢れ出す。

 それは囁きのように低く、壊れそうなほど柔らかい。

 けれど確かに、“想い”がそこにあった。


 涼子のギターが玲美の声を包み込み、

 香菜の録音機がその瞬間を記憶する。

 風の音が拍を刻み、三人の音が一点で交わる。



 古びた配管と錆びた壁を背景に、三人を中心に円を描くように。

 光が揺れ、影が重なり、

 ――その中心で、“音の渦”が生まれていた。


 それはまだ未完成な旋律。

 だが確かに、彼女たちの心が共鳴した瞬間だった。



玲美の声が震えながら空間に広がっていった。

 その響きに呼応するように、涼子のギターが低く共鳴する。

 錆びた弦が風の拍に合わせて鳴り、音が重なり合うたび、配管の奥に眠っていた空気が目を覚ます。


 「ヒュウウウ……」

 風が強まった。

 まるで、この狭い配管区そのものが彼女たちの音に応えるように――金属が震え、壁がわずかに鳴動する。

 共鳴音がコードの余韻に重なり、音と風の境界が溶けていく。


 香菜の録音機が、その瞬間を逃さずに捉えた。

 波形のランプが赤く跳ね上がり、メーターが限界まで振れる。

 風、声、弦。

 その三つが、完璧な一点で“ひとつの音”になる。


 香菜は、思わず息を呑んだ。

 「……今、星が歌った。」

 呟きは小さく、だが確信に満ちていた。


 涼子は静かに微笑んだ。

 弦の余韻を指先で押さえながら、ゆっくりと顔を上げる。

 「それでいい。――これが、“始まり”だ。」


 その言葉に、玲美の瞳がかすかに光を帯びる。

 録音機の中で、風と音が混ざり合い、ひと筋の赤い波形を描く。


 それは、“Red Line”――

 この星に生まれた、最初の生命の鼓動だった。


音楽ではなかった。

 それは、ただ“生きている”音だった。


 赤い非常灯が、壊れかけのリズムで明滅を繰り返す。

 光がつくたび、涼子のギターの指が一瞬だけ浮かび上がり、消える。

 次の瞬間には、香菜の髪が風に揺れ、また闇に沈む。

 玲美の唇が震え、声が空気を震わせる――そしてすぐに、赤い闇に溶けていった。


 「ヒュウ……」

 風が配管の奥を駆け抜ける。

 その流れに合わせて、ギターの低音が震え、玲美の声が重なる。

 響きは粗く、形を持たない。

 けれどその不完全さこそが、この瞬間の“真実”だった。


 音は、部屋の境界を越えて広がっていく。

 古びた鉄の壁を伝い、錆の隙間を抜け、ミネルヴァの空気層へ。

 まるでこの星の空気そのものが、三人の音を覚えようとしているかのように。


 

 狭い配管区の全景を俯瞰する。

 蜘蛛の巣のように絡むパイプの中で、小さな光と三つの影が、ひとつの円を描いて揺れていた。


 やがて音が遠ざかる。

 風の音だけが残り、空気が静寂を取り戻す。


 ――それでも、どこかでまだ、

 ギターの余韻と玲美の声が、赤い星の風に乗って響いていた。


録音機のランプが、静かに赤く灯った。

 配管の奥に散っていた音の粒が、ひとつの線に束ねられていく。

 波形モニターの光が、規則正しく脈打つ。

 まるで――この星のどこかに、ひとつの心臓が生まれたかのようだった。


 涼子は弦の上に手を置く。

 音は止まり、空気の震えだけが残る。

 香菜の録音機から、低い電子音が一度だけ鳴った。

 “REC”ランプが淡く明滅を繰り返し、やがて点灯のまま静止する。


 玲美が息を呑んだまま、ノートを閉じる。

 白紙のページには、まだ何も書かれていない。

 だが、その空白はもう“沈黙”ではなかった。

 今、そこには確かに――始まりの余韻があった。


 風が通り抜け、赤い非常灯の光がひときわ強く瞬く。

 録音機のディスプレイに、淡い文字が浮かび上がる。


 > 【Red Line / take_01】

 > “first breath recorded.”


 その瞬間、画面が静かにフェードアウトする。

 風の音だけが残り、火星の赤が、ゆっくりと闇に溶けていった。

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