沈黙を破る“風の拍”
――音が、消えた。
最後の一音が空気に溶け、配管の奥で低くうなる風がそれを呑み込んでいく。
涼子の指は弦の上に止まったまま、かすかに震えていた。錆びた金属の感触が、皮膚の奥にまで残響している。
玲美。ノートを膝に、俯いたまま動かない。ペン先が紙の上に置かれたまま、まるで呼吸すら止めたよう。
香菜。録音機の赤いランプを見つめている。点滅が、静かな心拍のように明滅していた。
そして――涼子。
彼女の左手はコードを押さえたまま固まり、右手の指先には“もう一度鳴らしたい”衝動が宿っている。だが、その音はまだ、沈黙の向こう側にある。
その沈黙は、痛みでも、恐怖でもなかった。
むしろ、世界が「息を潜めている」ような静けさ。
風がやみ、埃が宙に漂う。
配管の灯が赤く瞬き、時間そのものが止まったように見えた。
――音の消えた場所。
けれど、その無音の奥で、確かに何かが「待っている」。
沈黙を破ったのは、ほんの偶然の“音”だった。
――ヒュウ……チリ……。
どこか遠くの配管の隙間から、風が吹き抜けた。
細い金属の管が共鳴し、錆の粒が小さく跳ねる。
その音は脆く、頼りなく、それでいて――確かに「ここにある」と告げていた。
静止していた空気が、わずかに動く。
まるでこの場所そのものが、ゆっくりと“呼吸”を始めたかのようだった。
香菜が顔を上げる。
その瞳は風の方向を捉え、無意識に録音機へ手を伸ばしていた。
指が慣れた動作でスイッチを押す。
――カチリ。
赤いランプが“REC”から“PLAY”へと切り替わる。
スピーカーから、さっき録ったばかりの風音が再び流れ出す。
「ヒュウ……チリ……」
かすかなノイズの合間に、不規則なリズム。
けれど、その間合いが妙に心地よく――心の奥の鼓動と、重なった。
涼子が息を吸う。
玲美が顔を上げる。
沈黙の中に、確かな“拍”が生まれていた。
火星の風が刻む、誰のものでもないリズム。
それはまるで、彼女たちの再生を告げる合図のように――。
香菜は、再生された風音に耳を澄ませた。
その顔は静かで、けれど何かを見つけようとするように、わずかに目を細めている。
録音機のスピーカーから流れる「ヒュウ……チリ……」という音が、彼女の呼吸と重なった。
――一定ではない。
だが、不思議と「生きている」と感じられる。
風が管を抜けるたび、赤い粉塵が光の中を舞う。
その粒ひとつひとつが、まるで拍動の断片のように揺れていた。
香菜の唇が、かすかに動く。
「……これが、この星の“拍”だよ。」
小さな声だった。
けれど、その言葉は確かに空気を変えた。
涼子が弦に触れる手を止め、玲美がノートから顔を上げる。
二人の視線が、香菜に向かう。
――その瞬間、誰も口にしなかったけれど、皆が同じことを理解していた。
ここはもう“廃墟”じゃない。
風が音を刻み、人がそれを聴く場所――つまり、心臓。
火星の静寂が、ゆっくりと鼓動を始める。
音が、生まれたのだ。
香菜の録音機から、風の音が繰り返し流れていた。
「ヒュウ……チリ……」――金属が擦れ、砂がこすれる、不規則な呼吸のような音。
涼子は、そのリズムに導かれるようにギターを抱え直す。
錆びた弦に指を置き、ゆっくりと弾いた。
「ポロン……」
その音が空気を割り、風のリズムと重なる。
不安定な共鳴が起こった。
風の“拍”と、ギターの“音”が、互いに揺さぶり合う。
まるで、この惑星そのものが弾かれているようだった。
玲美が顔を上げる。
涼子の音、香菜の風、そして自分の心臓の鼓動――それらが、ひとつの線でつながっていく。
彼女の手が、ノートの上で小さく動いた。
ペン先が、震える紙をなぞる。
“――聞こえる。まだ、生きてる。”
掠れた文字。だがその言葉は、確かに世界を動かした。
その瞬間、三人の間にあった“沈黙”がほどける。
ギターの音が、風の拍に呼応し、ノートの言葉がその上に重なる。
――音が、彼女たちの間を巡り始めた。
錆びた配管の奥で、火星の空気が、まるで喜ぶように鳴った。
香菜の録音機のメーターが、微かに光を刻んでいた。
「ヒュウ……チリ……」――風の拍が鳴り、
そこに涼子のギターの響きが重なる。
ノイズ、共鳴、呼吸、弦の余韻。
それらが絡まり、ひとつの“線”を描く。
機械のノイズが、心拍のように点滅する。
赤いランプが「ピッ、チリ」と明滅しながら、音の軌跡を記録していく。
――まるで、この瞬間、火星という星そのものが録音されているかのようだった。
涼子はギターを抱えたまま、小さく息を吐く。
指先に残る弦の痛みと、胸の奥の熱を確かめるように。
「……始まったね。」
玲美は言葉を失ったまま、ただ頷いた。
香菜は録音機を見つめ、再生ボタンのランプが点滅するのを見守っている。
赤く錆びた配管が幾重にも重なり、そこに灯る小さな照明の光。
それは、薄暗い火星の路地裏で生まれた、最初の“音の息吹”だった。
画面下に、静かに文字が浮かぶ。
【Red Line / prototype_01】
“beat detected…”
――風と音と人の鼓動が、ひとつの線でつながった瞬間だった。




