静かな“試し
涼子は、膝の上に古びたケースを置いた。
その留め具を外す手つきは、まるで何かの儀式のように慎重だった。
カチリ――という小さな音とともに、
長い年月を閉じ込めていた空気がふっと漏れ出す。
その瞬間、赤い粉塵がゆるやかに舞い上がり、
壊れかけた照明の光に照らされてきらめいた。
ケースの中には、一本のギター。
ボディには無数の擦り傷、塗装の剥がれ、
弦は錆びつき、チューニングペグも所々欠けている。
けれど――その痛々しさが、どこか懐かしい。
「……ただいま。」
声にならないほど小さく、涼子は呟いた。
指先が弦に触れる。
ギュウ……と低くうなるような音が、
薄い火星の空気をゆっくりと震わせた。
音はすぐに消える。
だが、その余韻だけが、確かに“ここ”に残った。
涼子は目を閉じ、呼吸を整える。
ひとつ、ふたつ、確かめるようにコードを鳴らす。
かすれた音の連なりが、
まるで砂の下から芽吹くように、か細く響いた。
――この音が出るなら、まだ続けられる。
心の奥でそう呟いたとき、
涼子の顔に、ほんのかすかな笑みが浮かんだ。
それは、誰にも気づかれないほど小さな“再生”の始まりだった。
少し離れた場所で、香菜が静かにしゃがみ込んだ。
手のひらほどの小型録音機を取り出し、スイッチを入れる。
機体の表面には無数の擦り傷、側面には手書きの刻印――〈KANA-REC_02〉。
その名残が、彼女の試行錯誤の積み重ねを物語っていた。
「……よし。」
彼女はケーブルを繋ぎ、マイクを慎重に立てる。
古びた配管の裂け目から、細い風が漏れていた。
その風の筋を追うように、香菜は指先を伸ばす。
ひらり、と空気が触れた。
その瞬間、彼女の髪がふわりと揺れ、耳元で風が囁く。
香菜は目を細め、まるで“風の言葉”を聴こうとするかのように静止した。
「……ここ、かな。」
マイクの角度を微調整しながら、
まるで音そのものの呼吸を探っているようだった。
配管の奥から、チリ……チリ……と微かな電子のざわめきが混じる。
この録音機は、香菜の手作りだ。
廃棄された通信端末やラジオの部品を繋ぎ合わせ、
少しずつ形にしてきた。
拾える音はノイズ混じり――だが、それがいい。
「混ざってる音ほど、生きてるんだ。」
彼女はそう信じていた。
完璧な音はどこか嘘くさい。
でも、ノイズを抱えた音には“呼吸”がある。
香菜は目を閉じ、録音を開始する。
ヘッドフォンの中に、火星の風が流れ込んだ。
「ヒュウ……」
やさしく、柔らかく、どこか遠い記憶を撫でるような音。
「……風、鳴ってる。今日の音は……柔らかい。」
その呟きは、まるで天気予報のように穏やかだった。
けれど、この星で“風の調子”を読み取れるのは、彼女だけ。
香菜は、風を聴く。
世界がまだ眠っている場所で、
“音の芽”を見つける、ただ一人の少女だった。
ステージ脇――と呼ぶにはあまりにも粗末な鉄板の上。
玲美はそこに腰を下ろし、膝の上にノートを開いていた。
ページは白い。
それだけでなく、どこか“拒絶している”ようにも見える。
火星の夕光が、錆びた壁を照らしていた。
赤い反射がノートの端を染め、玲美の指先を淡く照らす。
その手は細く、ペン先が小刻みに震えていた。
書こうとする。
けれど、ペン先は紙の上を滑ったまま、文字にはならない。
――カチッ。
ノートの綴じ具の音が、沈黙を割った。
その音が、やけに大きく響く。
彼女の脳裏に、あの日の映像がフラッシュバックする。
スポンサー企業のロゴ。
「MARS CULTURE LINK PROJECT」――その無機質な表示。
冷たい通達の声。
「視聴率データに基づき、継続価値なしと判断。」
通信が切断され、モニターが暗転する瞬間。
音が途切れ、ステージが“無音”になる。
それが、玲美にとっての終わりだった。
――また、何かを始めても。
――どうせ、消えるんじゃないの。
(玲美・心の声)
「私たちの声なんて、誰も聴いちゃいなかった。
データのノイズみたいに、削除されるだけ。」
握るペンが、ぎり、と音を立てる。
指先に力が入りすぎて、紙が少し破れた。
玲美は息を吐く。
酸素の薄い空気のせいで、その息は少し掠れた。
「……歌う意味なんて、もう――」
言いかけたその瞬間、遠くでギターの音が鳴った。
低く、かすれた弦の響き。
風と混ざり、鉄の空間を伝って届く。
玲美の指が止まる。
ペン先が紙の上に戻る。
まだ何も書けない。
けれど、その音を聴いた瞬間、
“空白のままでも、ここに居ていい”と思えた。
彼女はまだ言葉を失ったまま――
だが、その沈黙こそが、新しい詩の“余白”になっていた。
三人のあいだに、言葉のない時間が落ちていた。
風が細く吹き抜けるたび、錆びた配管が低くうなり、
その響きが壁を伝って返ってくる。
涼子はギターの弦を、慎重に、探るように撫でていた。
音はまだ、定まらない。
「ギュウ……」と軋むような響きが、空気の奥へと滲んでいく。
香菜はマイクの角度を変えながら、
風の通り道を読んでいる。
録音機のインジケーターが、微かに点滅。
拾われたのは、風のざらついた声――「ヒュウ……チリ……」
玲美はノートの上で、ペン先を軽く走らせていた。
まだ文字にはならない。
ただ、紙を擦る音が、ギターとノイズのあいだに重なっていく。
――それは、まるで“無音のセッション”。
音ではない。
けれど、確かに“音楽の原型”が、空気の中に生まれつつあった。
三人の呼吸が、同じリズムを刻む。
吸って、吐いて――そのたびに、音がわずかに揺れる。
静寂と雑音のあわいに、何かが芽吹いていく。
まだ名もない、かすかな“拍動”。
その時、風が一陣、通り抜けた。
玲美のノートがふわりと開き、ページが一枚、音を立ててめくれる。
「パラ……」
そのわずかな音に、彼女は顔を上げた。
目の前の空気が、確かに“鳴っている”と感じた。
――風が、告げていた。
「次の音を聞け」と。
彼女は無意識に、息を吸い込んだ。
その瞬間、沈黙の中に“始まりの気配”が灯った。
涼子のギターの音が、静かに消えていった。
最後の余韻が、空気の奥で震えながら、やがて赤い塵の中に溶けていく。
香菜の録音機が、わずかに点滅を始めた。
拾い上げたのは、風の音――「ヒュウ……チリ……」
途切れ途切れのノイズ。だが、その不規則な間に、
どこかで心臓の鼓動のようなリズムが潜んでいる。
玲美はその音に、ふと顔を上げた。
まるで、空気の中に“拍”が宿ったように感じる。
彼女の瞳の奥で、光が微かに揺れた。
ペン先が――白紙のページの上で、小さく動いた。
一文字。
それは、音になる前の、最初の“言葉”。
香菜が録音機を見つめながら、かすかに笑う。
「……これが、この星の“拍”だよ。」
その言葉に応えるように、涼子の指が再び弦に触れる。
ひとつのコードが鳴り、風のリズムと重なった。
――静寂が、音楽に変わる瞬間。
“Red Line”の原型が、いま、火星の空気の中で生まれた。




