失われた場所から
――金属が軋む音が、暗がりの中に低く響いていた。
ミネルヴァ・コロニー第7層。
かつて酸素塔へと繋がっていた配管が複雑に絡み合い、壁面には長い年月の錆が刻まれている。
空気は重く、薄い。だがそのぶん、風が通り抜けるたびに生まれる“音”が、はっきりと耳に届いた。
非常灯の赤い点滅が、時折、金属の壁を照らす。
光のリズムに合わせて、三人の影が長く伸びたり、消えたりする。
足音――ギイ、ギイ、と鉄板の響き。
遠くでは、どこかのパイプから水滴が落ちる音が、ゆっくりと時を刻んでいた。
涼子は先頭で立ち止まり、息をつく。
足元には、錆びついた補給ポートの残骸。誰にも使われなくなった機材が、赤い砂に半ば埋もれている。
彼女は膝をつき、その表面を指でなぞった。粉のような錆が、指先にまとわりつく。
「……まるで、廃墟ね。」
玲美が、息を潜めるように呟いた。
涼子は微笑を浮かべ、顔を上げる。
「廃墟でいいの。音が逃げないから。」
その声に呼応するように、配管の奥から風が吹き抜けた。
「ヒュウウウ――」
どこか寂しく、けれども温かい音。まるでこの場所そのものが呼吸しているようだった。
香菜がゆっくりと録音機を取り出す。
マイクを構え、目を閉じる。
「風の音、きれい……」
カチリ、と録音ボタンが押される。
機械の中に吸い込まれていくのは、ただのノイズではなかった。
チリ……チリ……と電子のざわめきの奥に、風の息づかいが微かに混じる。
それは、かすかに旋律のように聴こえた。
涼子はその音を聞きながら、目を閉じた。
胸の奥に、忘れていた感覚が蘇る。
――これは、まだ終わっていない。
音が生きている限り、私たちは“ここ”で続けられる。
風が、再び通り抜けた。
そのたびに、錆びた配管が震え、共鳴し、低いハーモニーを奏でる。
誰もいない廃墟が、ゆっくりと“ステージ”へと姿を変えていく。
そして香菜の録音機の中で、確かに“何か”が記録され始めていた。
のちに「Red Line」と呼ばれる旋律――その最初の一音が。
――再び、配管区の奥に灯りがともる。
だがそれは蛍光灯でも酸素灯でもなく、古びた機械の残光だった。
アーネストが腰をかがめ、ケーブルを何本も繋いでいく。
工具箱の中から取り出された電線は色褪せ、被膜がところどころ裂けていた。
それでも彼の手つきは迷いがない。
「電力は……三分だけ持つな。奇跡が起きれば、四分。」
ぼやきながらも、彼の眼差しには確かな誇りが宿っていた。
その隣では、ルークが壁面を叩きながら配線を調べていた。
「こっちのライン、まだ生きてる。……古いけどな。」
彼は錆びたパネルをこじ開け、中から取り出した端末を手際よく繋ぎ直す。
やがて、青白い光が一瞬だけ走る。
仮設の配電盤が、かすかな唸りを上げて息を吹き返した。
反対側では、セラとミラが動いていた。
廃棄された照明ユニットを拾い集め、壊れた反射板を組み合わせて即席のライトを作る。
「これ、角度こっちの方がきれいだよ。」
「うん。涼子さんの顔に、ちゃんと光が当たるように。」
二人の指先が触れるたび、柔らかな銀色の光が壁面に反射して広がっていった。
赤錆の迷路の中に、ほんの一瞬だけ“舞台”の匂いが戻る。
その中心に、涼子が立っていた。
錆びた配管を支柱にして組んだ“即席ステージ”。
廃材で作ったマイクスタンドは歪んでいるが、確かにそこに“立つ場所”があった。
彼女の前には、酸素塔から流用した古いスピーカー。
片方は壊れて音を出さない。けれど――もう片方は、まだ生きている。
玲美はその光景を黙って見つめていた。
手の中のコードを握りしめたまま、俯いた視線の奥に迷いが揺れる。
スポンサーも、番組も、失った。
あの華やかな舞台も、もう戻らない。
けれど、目の前で汗と埃にまみれながら動く仲間たちを見て――
胸の奥で、何かが小さく灯るのを感じた。
玲美(小声):「……ここが、私たちの“ステージ”?」
涼子は彼女に向かって静かに微笑む。
「うん。風の音が、伴奏してくれる。」
その言葉を待っていたかのように――
配管の奥から、風が通り抜けた。
「ヒュウウウ……」
細い金属管が震え、低く長く響く。
まるで、音楽の“はじまり”を告げる序章。
赤い光の中、三人の影が重なり合う。
音はまだ生きている。
そして――この廃墟が、彼女たちの“再生”の場所になる。
――暗闇の底で、ひとつの灯りが点いた。
セラが手の中の端末を操作すると、拾ってきた照明がかすかに明滅を始める。
ミラがそっと反射板の角度を変える。
赤錆の壁に跳ね返った光が、淡いオレンジの輪となって、ステージの中央を照らした。
まるで火星の夕暮れが、ここにだけ戻ってきたようだった。
光が三人の頬に触れる。
涼子の眼差しはまっすぐ前を見つめ、玲美はその横顔を見つめていた。
香菜の手元の録音機が、かすかにノイズを拾い、息をするように点滅する。
三人の影が壁に重なり、ひとつの“形”になる。
玲美が小さく笑った。
「……ねえ、これ……ステージって言うには、ちょっと狭いけど。」
香菜が頷きながら録音ボタンを押す。
「でも音は逃げない。……ね、涼子さん。」
涼子はわずかに息を吸い込み、そして静かに答えた。
「うん。きっと、この狭さがちょうどいい。」
その言葉に、空気が少しだけ柔らかくなる。
狭い。閉ざされている。
けれど、ここでは“音が生きている”。
それはもう絶望ではなかった。
――音を閉じ込める、小さな“再生”の場所。
風がパイプを伝って通り抜ける。
「ヒュウウウ……」
そこに微かな電子ノイズが混じった。
「チ……チリ……チ、チ……」
まるで誰かが遠くでリズムを刻んでいるように。
風とノイズが混ざり合い、やがてゆっくりと拍を刻みはじめる。
その音は、まだ曲になっていない。
けれど――確かに“はじまり”だった。
火星の廃配管の奥で、かすかなリズムが鳴り続ける。
それが、やがて「Red Line」へと繋がる最初の鼓動になる。
錆びた配管の奥、わずかに灯った照明の輪の中で、三人の影が静かに揺れていた。
その光は頼りなく、風が吹くたびにかすかに明滅する。
だが、確かに“そこにいる”――火星の底で、音を探す三人の姿。
風がパイプの間を抜ける。
「ヒュウウ……チリ……チリ……」
その断続的な音が、まるでリズムを刻むように空気を震わせた。
灯りの点は、やがてひとつの“心臓”のように、規則的に瞬きを始める。
――その瞬間、画面下に文字が浮かぶ。
【Red Line / rehearsal_01】
“Recording start…”
微かなノイズと共に、フェードアウトしていく。
その余韻の中で、風のリズムだけが残る。
それはまだ“音楽”ではない。
けれど、確かに“息づく音”だった。




