絶望 ― 夢の崩壊
通信室は、夜の静寂に沈んでいた。
壁一面を覆うモニター群はすでに半数がブラックアウトし、残された数枚だけが青白い光を投げかけている。
その光は、まるで水底のように冷たく、室内の金属壁をぼんやりと照らしていた。
天井の酸素灯は不安定に点滅し、光が消えるたび、誰かの息づかいだけが際立つ。
帰還直後の湿った空気――火星の赤い塵が、彼女たちの衣服にまだ薄く残っている。
涼子は通信卓の前に座り、無言でモニターを見つめていた。
指先には、酸素塔の外で感じたあの風の名残が、まだ微かに残っているような気がした。
玲美は奥で機材を整えながら、ちらりと涼子の背中を見る。
沈黙が、何かの前触れのように重くのしかかる。
ただひとつ、機器のパネルだけが規則的に明滅していた。
その青白いリズムは、生命維持装置の鼓動にも似て――
この場所が、まだ“かろうじて生きている”ことを示していた。
通信モニターが、不意に低い電子音を鳴らした。
青白い光が瞬き、画面に企業ロゴがゆっくりと浮かび上がる。
《MARS CULTURE LINK PROJECT - STATUS: TERMINATED》
その文字は、どこか無感情な冷たさを帯びて、通信室の壁に反射する。
「――うそ……」
玲美は息を呑み、椅子を蹴るように立ち上がった。
足音が金属の床に乾いた音を響かせる。
彼女は端末に駆け寄り、震える指で操作盤を叩く。
「待ってください! どういうことですか!? 私たちはまだ、正式な発信テストも――」
画面の奥から、静かな電子音声が応答した。
冷徹で、人の温度を感じさせない合成声。
《プロジェクト評価基準に基づき、文化波及指数は閾値未満。継続価値なしと判断しました。》
玲美の顔から血の気が引く。
モニターに映る文字列は淡々と流れ続け、どんな懇願も遮るように、規定文を反復していた。
涼子はその光景を見つめながら、何も言えずに立ち尽くす。
画面に映る「TERMINATED」という単語だけが、火星の夜に鋭く突き刺さっていた。
モニターの青白い光が、涼子の頬を淡く照らしていた。
その光の中で、彼女は立ったまま動かない。
唇が、わずかに震えた。
けれど、声は出ない。
言葉が、胸の奥で形を失っていく。
酸素塔の稼働音が遠くで唸り、通信室の空気は重く沈む。
玲美は操作盤の前で拳を握りしめたまま、視線を落とす。
その傍らで、香菜が静かにしゃがみ込んでいた。
彼女の膝の上には、小さな録音機。
両手でそれを抱くように持ち、そっと再生ボタンを押す。
「……ヒュウ……ヒュウ……」
ノイズ混じりの風の音が、室内に広がった。
無機質な機械音の中で、それだけが確かに“生きている”音だった。
涼子の視線がゆっくりとその方向を向く。
耳を傾ける。
それは、あの少女と聴いた風――火星の息。
けれど、今はもう何も続かない。
風の音が、虚空に吸い込まれていくように薄れていく。
涼子の唇が、再び震えた。
今度は、かすかに声が漏れる。
「……ここには、もうステージもないの……?」
その言葉は、自分自身に向けた問いのように、静かに消えていった。
天井の酸素灯が、ひとつ――またひとつと、ゆっくりと落ちていった。
「ピ……」という短い電子音を残して、光が息絶えるたびに、部屋の輪郭が崩れていく。
白い照明が失われ、通信室はじわじわと赤い闇に沈み始めた。
壁に反射する酸素塔の外光が、血のような色を帯びて揺れる。
玲美が顔を上げたとき、その光が彼女の瞳の中で小さく滲んだ。
香菜は録音機を抱いたまま、微動だにしない。
誰も、次の言葉を持たなかった。
――ただ、呼吸だけがあった。
薄い空気を肺に取り込むたび、喉が痛む。
その音さえも、この部屋で唯一の“生”の証。
だがそれすら、徐々に遠のいていくように感じられた。
モニターの電源が落ち、最後の光が消える。
静寂が、重い布のように降りかかる。
その暗闇の中で――
机の端に置かれた古びたラジオが、かすかに赤く点滅した。
「チ……チリ……」
ランプが弱々しく明滅を繰り返す。
それはかつて、希望を告げる鼓動のように見えた光。
けれど今、涼子にはそれがまるで“終焉のサイン”のように映った。
赤い光が、最後にひときわ強く瞬き――
そして、闇に溶けて消えた。
――音が、止んだ。
BGMは途切れ、通信室に残るのは“風のざわめき”と“ノイズ”だけ。
金属壁をすり抜ける気流が、細く、長く、悲鳴のように鳴る。
その音がやがてラジオのノイズと混ざり合い、
「チリ……ヒュウ……チリ……」――まるで、この場所が息をしているようだった。
酸素灯の光がゆっくりと弱まり、
青白かった通信機のパネルも次々に沈黙する。
照明が一段ずつ落ちていくたび、三人の姿は影の中に溶けていった。
玲美は端末の前に座り込んだまま、
香菜は録音機を胸に抱き、
涼子は立ったまま――その目に、もはや光を映さない。
ラジオのランプだけが、赤く残る。
薄暗い空間の中で、その一点が脈打つように瞬く。
カメラがゆっくりと引いていく。
三人のシルエットが遠ざかり、やがて輪郭を失う。
残されたのは、通信モニターの画面だけ。
そこには、無機質な白い文字が静かに浮かんでいる。
《STATUS: TERMINATED》
数秒後、その文字も赤い光の中に滲み――
フェードアウト。
風とノイズが重なり、
最後に、「チリ……チリ……」というかすかな音だけが残った。
通信室に残るのは、赤い光と静かな呼吸だけ。
数字がすべてを決める時代。
夢も、努力も、視聴率のグラフの上で“価値”として測られる。
冷たいデータが、文化を終わらせ、希望を消す。
それでも――
火星の風だけは、まだ彼女たちの“息”を覚えていた。
金属の壁をかすめるように流れる風が、
録音機のマイクを震わせる。
「……ヒュウ……」
その音は、どこかで誰かがまだ“生きている”ことの証。
AIが切り捨てた無駄なノイズこそ、彼女たちが追い求めてきた“生命の響き”だった。
涼子は静かに目を閉じる。
視聴率も、評価も、報告書も――何もいらない。
彼女の胸の奥で、ひとつだけ確かなものがある。
それは、“息”の音。
火星の空気が彼女たちの記憶を包み込み、
ラジオの赤いランプが、まだ脈を打つように光っている。
――文化は終わらない。
数字では測れない“音”が、ここで確かに生きている。
通信モニターが沈黙し、画面にはノイズだけが残る。
そのざらついた音の中から、ふと――小さな声が混じった。
「……あはは……ねぇ、もっと風の近くで録ろうよ……!」
香菜の録音機が自動再生を始めていた。
それは、火星の子供たちの笑い声。
風に混じる無邪気な声が、冷えきった通信室に柔らかく広がっていく。
涼子はゆっくりと顔を上げた。
その目に、微かな光が戻る。
「音は……まだ、生きてる。」
玲美が息を呑み、香菜が泣き笑いのように頷く。
三人は何も言わずに見つめ合う。
スポンサーの通信も、AIの通達も、もはや関係ない。
彼女たちの中で、確かに“音”は生きている。
呼吸のように、心臓の鼓動のように。
涼子は録音機の赤いランプを見つめ、静かに呟く。
「……届けよう。この星の“息”を。」
その瞬間、ノイズの奥で風が鳴った。
――まるで、火星そのものが応えるように。




