情景
路地裏には、夕陽が沈みかけていた。
酸素塔の影がゆっくりと伸び、赤い粉塵の中で揺れている。
壁際には、風に錆びた金属片が積み重なり、かすかに「カラ……」と鳴いた。
涼子は膝をつき、胸ポケットに手を伸ばした。
指先が、そこに仕舞っていた小さなマイクの冷たい感触に触れる。
取り出した瞬間、光を反射して淡くきらめいた。
彼女の手がわずかに震える。
それは恐れでも緊張でもない――“祈り”のような震えだった。
何かを呼び戻そうとするように、彼女は静かにマイクを見つめる。
少女は向かいで、息を止めるようにその動作を見ていた。
その小さな肩が、夕風の中でほんの少しだけ揺れる。
沈黙の路地に、二人の呼吸音だけが溶けていった。
涼子はマイクを両手で包み込むようにして、壊れたラジオのそばへとそっと置いた。
金属の床に触れた瞬間、かすかな音が響く。――まるで、何かが目を覚ます前の息づかいのよう。
彼女は息を整え、指先でスイッチを押し込む。
「カチッ」と小さな音。
その直後、ほんの一拍の沈黙が流れた。
風さえも息を止めたような、張り詰めた静けさ。
そして――。
「……ピッ……チリ……チリ……」
ラジオの奥から、微かなノイズが滲み出す。
電子のざわめきと、外の風の音が溶け合い、やがて一つの“呼吸”のように重なっていく。
それは、誰かが遠くで目を覚ましたかのような、かすかに暖かい音だった。
少女の瞳がゆっくりと見開かれる。
反射する光の中に、小さな驚きと、信じられないような希望が宿る。
唇が微かに震え、何かを言おうとして――けれど、言葉にはならなかった。
ただ、静かに、二人はその音を聴いていた。
“息”を持たない星の片隅で、生まれたばかりの“呼吸”を。
少女は、そっとラジオの前に身を乗り出した。
両腕で抱えるようにして、耳を近づける。
壊れかけた金属の表面が、体温でわずかに曇る。
「……ピッ……チリ……チリ……」
ノイズが、風の流れに合わせて揺れた。
風が吹くたびに、電子のざわめきが微かに高まり、止むとまた静まる。
それはまるで、何かがこの薄い空気の中で“息をしている”ようだった。
少女の表情には、喜びよりも深い“祈り”の色が宿っていた。
目を閉じ、音を逃すまいとするように全神経を傾けている。
その姿に、涼子は息を飲んだ。
やがて、少女が唇をわずかに動かす。
囁くような声が、ノイズの隙間に溶けていった。
「……生きてる。」
その一言が、涼子の胸の奥に深く響く。
音の震えよりも確かに――
彼女は、今、ひとつの“命の証”を聴いた気がした。
涼子は、少女の小さな横顔を見つめながら、胸の奥で何かがゆっくりと形になるのを感じていた。
風が再び吹き抜け、ラジオの中のノイズがさざ波のように揺れる。
「この星の子は、“音”を欲しがっている。
息をするように、生きる証を求めている。
その声を――私は、地球へ届けなきゃ。」
心の中でその言葉が浮かぶと、涼子はラジオから視線を上げた。
空は、赤い砂塵の彼方でゆっくりと色を変えつつある。
夕焼けの朱が、酸素塔の影を長く伸ばし、その向こうに淡い青が滲む。
それは、かつて彼女が見上げた地球の空の色――
もう二度と見られないと思っていた“帰る場所”の記憶。
薄い空気を透かして、遠くに小さな青い光が瞬いている。
涼子は目を細め、深く息を吸い込んだ。
ノイズがまだ、かすかに鳴っている。
それは風でも、機械でもない――この星の“息”そのものだった。
涼子と少女は、路地裏の片隅に並んで腰を下ろしていた。
壊れたラジオのランプが、夕暮れの薄闇の中でかすかに赤く瞬いている。
それは灯火のようであり、鼓動のようでもあった。
風が吹くたびに、赤い粉塵が舞い上がり、二人の髪をやさしく撫でていく。
遠くで酸素塔が低くうなり、空気の振動が地面を伝って足もとに届いた。
ラジオのスピーカーから、静かなノイズが漏れ出す。
「チリ……チリ……ヒュウ……」
電子のざらつきと風の息が、やがて一つに溶け合っていく。
それはまるで、この惑星そのものが“息をしている”ような音だった。
涼子は目を閉じ、その音に耳を傾けた。
呼吸と、風と、ノイズ。――すべてが、生きている。
やがてカメラはゆっくりと引いていく。
夕陽が完全に沈む寸前、赤い空の下に二つの小さな影。
火星の薄い大気の中で、微かな“生命の音”が静かに鳴り続けていた。
ラジオの小さなランプが、赤く――そしてゆっくりと、点滅を繰り返していた。
「ピッ……ピッ……」
その明滅は、まるで心臓の鼓動のよう。
まるで、この壊れかけた機械の中にも“命”が宿っているかのようだった。
涼子はその光をじっと見つめる。
頬を伝う一筋の涙が、粉塵の中でわずかに光る。
だが彼女は拭おうとはしなかった。
風が頬を撫で、涙の跡を乾かしていく。
涼子は静かに、微笑んだ。
それは悲しみではなく――確かな希望の微笑み。
ラジオのランプが、最後にもう一度だけ強く灯る。
そして、その赤い光が二人の顔を照らし出す。
火星の空は深く沈み、風が歌う。
“生きている”という音が、確かにそこにあった。
赤い砂の舞う路地裏。
その片隅で、涼子と少女が並んで座る姿が、次第に小さくなっていく。
背後には、巨大な酸素塔のシルエット。
その影が、火星の薄い大気を貫いて空へと伸びていた。
塔の上部で、わずかに光が瞬く。まるでこの星が、かすかな呼吸を続けているかのように。
画面全体に、赤い光がじわりと滲み広がる。
その赤は、血のようでもあり――生命の灯のようでもある。
そして、ゆっくりと暗転。
静寂。
ただ、ラジオのノイズだけが、最後にかすかに響く。
「……チリ……チリ……」
その音が、闇の中へ溶けていく。
暗転した画面の奥――
しばしの沈黙ののち、
ラジオの内部で、ひときわ鋭い“チリ”という音が走る。
回路の奥で、小さな赤いランプが再び灯る。
それは、かすかに規則的な点滅。
まるで、何か――遠い場所からの呼吸に応えるように。
静寂の中、微弱な電波の波形が揺らぐ。
「……ザ……ピ……」
それはノイズのようでいて、どこか“意志”を帯びていた。
少女のラジオが、確かに“何か”を受け取ろうとしている。
――まだ見ぬ地球からの、最初の呼び声。
画面がゆっくりとフェードアウト。
最後に、微かな波形が赤く瞬く。




