少女の願い
夕刻。
火星の太陽が沈みかけ、空は淡い橙から鈍い紅へと変わりつつあった。
下層区画の外れ――酸素塔の巨大な影が、崩れかけた建物の壁面を静かに覆っている。
その影の中に、一本の細い路地があった。
薄い空気が流れ、足もとの粉塵がかすかに舞う。
風はほとんどなく、酸素塔の低い唸りだけが、遠くから途切れ途切れに響いている。
灯りはない。
ただ、赤い反射光が壁の鉄錆を鈍く照らし、路地全体がどこか血のような色を帯びていた。
その静寂の中に、二つの影がある。
ひとつは――地球から来た取材者、涼子。
もうひとつは――この惑星で生まれ、ここで生きる小さな少女。
呼吸音すら響くほどの静けさの中、二人の存在だけがかろうじて“生”を感じさせていた。
そのわずかな気配が、夕暮れの赤に溶け込みながら、火星の空気を震わせている。
涼子は、壊れたラジオの外装に指を滑らせた。
指先に伝わるのは、錆びついた金属のざらつきと、長く冷たくなった感触。
かつて音を宿していたはずの機械は、今ではただの“殻”のようだった。
少女はその様子を、黙って見つめている。
膝を抱えたまま、細い肩を少し震わせながら――。
その瞳の奥には、ふたつの光が同居していた。
“期待”と、“諦め”。
希望を持つことの痛みを知っている瞳。
沈黙の中で、少女が小さな声を落とす。
少女:「ねぇ、お姉ちゃん。地球のラジオって……どんな音なの?」
その声は、風よりも静かだった。
だが、言葉のひとつひとつが涼子の胸に沈んでいく。
――それは、単なる質問ではない。
この惑星では届かない、“知らない世界への憧れ”そのものだった。
涼子は答えを探すように、ラジオをそっと見つめ返す。
赤く沈む空の下で、その小さな沈黙だけが、ふたりの間に息づいていた。
涼子は、少女の問いにすぐには答えられなかった。
胸の奥で、何かが小さく疼いていた。
それは――音の記憶。
かつて満ちていた世界の、温かな残響。
少し間を置き、彼女は静かに口を開く。
涼子:「……あたたかい音。人の息が混ざった音。
ニュースとか、歌とか、笑い声とか……いろんな“生きてる音”が流れてた。」
その言葉を紡ぐたびに、遠い地球の空気が脳裏をよぎる。
マイクの前で息を吸い、声を放つ瞬間。
観客のざわめき、拍手、そして自分の心臓の鼓動――。
あのとき確かに、音は“生きていた”。
少女は小さく息を呑み、手の中のラジオを見下ろす。
ひび割れた金属面に、彼女の顔がかすかに映る。
少女:「じゃあ、この子も、いつか“息”を出せるかな。」
涼子はその言葉に胸を詰まらせた。
少女が抱くそのラジオは、単なる壊れた機械ではない。
彼女にとっては、“声を失った友だち”――沈黙の中で、ずっと待ち続けている存在なのだ。
風が吹き、ラジオのアンテナがかすかに鳴った。
その微かな音さえ、ふたりには“鼓動”のように聞こえた。
涼子の胸の奥に、少女の言葉が深く沈んでいった。
――“息を出せるかな”。
その一言は、まるで細い針のように静かに突き刺さり、心の奥でじわりと痛みを広げる。
彼女は、知らずラジオを見つめていた。
ひび割れた金属面の向こうに、かつての自分の姿がぼんやりと重なる。
音を失い、声を出せず、ただ沈黙の中で呼吸を忘れていった日々。
――あのとき、自分もまた、“息を止めかけていた”。
指先が震え、涼子はそっとラジオのネジを撫でた。
壊れた部分を見つけるように、自分の過去の欠片を確かめるように。
モノローグ(涼子):
「音は、息。
歌は、生きる証。
この子を直すことは……あの時の私を、もう一度“生かす”ことなんだ。」
その瞬間、涼子の瞳の奥で、わずかに光が灯る。
それは決意の光――かつての“沈黙”を越え、再び息を取り戻すための小さな灯火だった。
涼子はゆっくりと胸ポケットに手を伸ばした。
指先が触れたのは、銀色にくすんだ小さなマイク。
取材用にいつも持ち歩いていた、旧式の簡易型。
だが今は、それがまるで“心臓”のように思えた。
彼女はそれをそっと取り出し、少女の前に差し出す。
赤い光がマイクの金属面に反射して、淡く揺れた。
「この子に――地球の“息”を聞かせてあげる。」
涼子の言葉に、少女は目を丸くする。
そして、ためらいがちに、それでも確かな笑みを浮かべた。
「ほんとに……そんなこと、できるの?」
涼子は微笑んでうなずく。
言葉よりも先に、手が動いた。
慎重に、壊れたラジオの端子へとマイクのプラグを差し込む。
――「ピッ……チリ……」
空気が震えた。
乾いたノイズが、まるで誰かの最初の呼吸のように路地裏に流れる。
その微かな音の粒が、赤い夕光の中で揺らめきながら、
確かに“生まれよう”としていた。
少女は息を止め、涼子はそっと耳を澄ます。
二人の間に流れたそのノイズは、
まるで地球と火星をつなぐ“ひとつの息”のように、やさしく震えていた。
夕暮れの風が、静かに二人を包み込む。
酸素塔の影が長く伸び、赤い粉塵がゆっくりと舞い上がる。
その中で――壊れたはずのラジオのランプが、
かすかに、ひとつ、赤く瞬いた。
まるで、眠っていた心臓が初めて鼓動を打つように。
涼子はその光を見つめながら、そっと息を吸う。
薄い空気が肺に触れるたび、
遠い地球の空気と重なって、胸の奥がじんわりと熱くなる。
モノローグ(涼子):
「火星の空気の中にも、“息”はある。
きっと――音はまだ、生きてる。」
少女はラジオを抱きしめたまま、小さく笑った。
その頬を撫でる風が、ノイズとともにかすかな旋律を運ぶ。
“チリ……チリ……”
それは、音の始まりのようでもあり、
再生の予感のようでもあった。
――この瞬間から、二人の物語が動き出す。
沈黙を越えて、“星を超えて繋がる音”を探す旅が。
涼子はマイクをラジオのそばにそっと置いた。
手のひらほどの小さな機械が、夕暮れの光を反射して微かに光る。
スイッチを入れると、スピーカーの奥から「……チリ……チリ……」と、かすかなノイズが立ち上がった。
混じり合う電子の震えの中に、風が通り抜ける音が――確かにあった。
少女はその音に耳を澄ませる。
目を閉じ、息を止め、まるで“空気そのもの”を聴こうとするかのように。
頬に吹きつける赤い風が、彼女の髪を揺らした。
モノローグ(涼子):
「この星の子は、“音”を欲しがっている。
息をするように、生きる証を求めている。
その声を――私は、地球へ届けなきゃ。」
涼子は静かに空を見上げた。
薄い大気の向こう、遠い地平の彼方に、淡い光点がまたたく。
それは――かつての故郷、青い星。
少女が微かに笑う。
ラジオの中では、まだノイズが鳴っていた。
「……チリ……チリ……」
まるで、この世界の心臓が、確かに鼓動しているかのように。
カメラがゆっくりと引いていく。
酸素塔の影が長く伸び、赤い砂が舞い上がる。
風とノイズが重なり、沈黙の惑星に“音の残響”が染み込んでいく。
――その小さな音が、やがて星を超え、誰かの耳に届くことを信じて。




