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MARS☆IDOL ☆赤い星のシンフォニー☆  作者: 南蛇井


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3/13

家族という現実

リビングに漂う煮物の匂いが、どこか遠くの記憶を呼び起こす。

子どもの頃は、この匂いを嗅ぐだけで“家に帰ってきた”気がしたのに――

今は、ただ胸の奥を重くするだけだった。


テーブルの上には、湯気の立つ味噌汁と焼き魚。

箸置きの横に置かれた白飯は、ほとんど手つかず。

テレビからはニュース番組の声が流れている。

アナウンサーが「景気回復の兆し」と機械のように読み上げていた。


父と母は向かい合って黙々とご飯を食べている。

箸の音だけが、時計の針のように一定のリズムで響く。


そのリズムを破ったのは、母のため息だった。


「……あのね、涼子。もういい加減、現実を見なさいよ」


箸の先から、一粒の米がぽとりと味噌汁に落ちた。

涼子は顔を上げる。母は穏やかな声のまま、しかし逃げ場を与えない。


「二十四にもなって、夢ばっかり追ってたら生活できないでしょ」

「家にいるなら、そろそろ仕事探せ」――父も短く言葉を添える。


涼子は、味噌汁の湯気の向こうで二人の姿をぼんやり見つめた。

その湯気が、まるで彼女を現実から隔てているように揺らめいている。


“まただ……この言葉、何回聞いたっけ。”


母は悪気なんてない。

むしろ心配している。

だからこそ、反論できない。

正しい言葉ほど、人の心をゆっくりと傷つける。


「夢を持つのはいいけどね、現実っていうのもあるの」

「神田さんの話、ちゃんと聞いたんだろ? もう無理なんだ」


父の言葉に、胸の奥が小さく軋んだ。

“無理”――その一言が、あまりにも冷たく響く。


涼子は箸をそっと置いた。

木の音が小さく、乾いた音を立てる。


唇を開きかけた。

でも、何も出てこなかった。


ただ、湯気の向こうで家族の声が遠ざかっていく。

その中で、涼子の心だけが静かに凍りついていた。


沈黙が、部屋の中を満たしていた。

味噌汁の湯気も、時計の秒針の音も、

まるで時間が止まったように動かない。


その静寂を破ったのは、テレビの青白い光だった。

ソファに寝転んでいる弟――慶が、

ポテトチップスの袋をガサリと鳴らしながら、

画面から一度も目を離さずに、ぽつりと言った。


「……やりたいなら、やれば?」


たったそれだけの言葉だった。


でも、空気が一瞬で凍る。

両親が同時に慶の方を見た。

慶は肩をすくめ、手を止めずにチップスを口に運ぶ。


「どうせ言っても聞かないでしょ、姉ちゃん」


その声には、からかいも呆れもなく、

ただ、何の感情も混じっていなかった。

無関心に見えるその響きが、

なぜか涼子の胸の奥に静かに刺さった。


涼子は、思わず口の端を上げた。

笑おうとしたわけじゃない。

涙が出そうだったから、笑うしかなかった。


母は困ったように眉を寄せ、

「もう子どもじゃないのよ」と小さくつぶやく。

その声には、呆れと愛情が入り混じっていた。


涼子は何も言わず、ただ両手を膝の上に置いた。

指先が少し震えている。


“夢を持つことが、どうして悪いんだろう。

それなのに、どうして胸がこんなに痛いんだろう。”


テレビの音がまた戻ってくる。

誰もチャンネルを変えない。

誰も、何も言わない。


画面の中では、キラキラしたアイドルたちが

笑顔でステージを走り回っていた。


その光景が、

まるで別の星の出来事みたいに遠く感じられた。



箸の先が、かすかに震えていた。

涼子はそれをそっと置くと、椅子を引いた。

ギィ――と、木の脚が床を擦る音が、

不自然なほど大きく響く。


母が顔を上げる。

「どこ行くの?」


涼子は視線を合わせずに、短く答えた。

「……部屋」


それだけ。

それ以上、何も足すことができなかった。


立ち上がると、こたつの温もりが一気に足元から消える。

その冷たさが、まるで現実そのもののようだった。


階段を上がる。

一段ごとに、きしむ音。

背後から、父のため息が追いかけてくる。


その音は、叱責でも励ましでもなかった。

ただ、静かに重い。

“あきらめ”の温度を帯びた空気が、背中に張りつく。


二階の廊下は薄暗い。

蛍光灯の光が届かず、

窓の外の街灯が壁にぼんやりと影を落としている。


涼子は自室の前で立ち止まり、

ドアノブをゆっくり握った。


手の中で冷たい金属が鳴る。

そして――静かに扉を閉めた。


カチリ。


その小さな音が、家族との境界線になった。

薄い扉一枚隔てた向こう側から、

食器の音とテレビの笑い声が微かに聞こえる。


けれどそのどれもが、

もう自分とは関係のない世界の音のように思えた。


部屋の中は、ほとんど真っ暗だった。

カーテンの隙間から漏れる街灯の明かりが、

机の上にうっすらと影を落としている。


机の上には、開きっぱなしのスケジュール帳。

最後に書かれている文字は、

黒インクで小さく――

「LIVE:RAY/BASE」。


その下には、何も書かれていない。

空白だけが、静かにページを支配していた。


涼子はベッドの上に視線を移す。

そこには、黒いマイクケースが置かれている。

金具の部分が薄く光を反射していた。


彼女はゆっくりと手を伸ばす。

指先がケースの表面に触れた瞬間、

ひんやりとした冷たさが肌を刺した。


“夢を持つことが、どうして悪いんだろう。

でも、もう……自分でもわからない。”


小さく息を吐いた。

その音が、部屋の静けさをわずかに揺らす。


窓の外には、遠くの街の灯が滲んでいた。

信号の赤が、まるで遠い星のように瞬いている。

風がカーテンを揺らし、

その布の波が壁を撫でるたび、

部屋の中の孤独が形を変えて流れていった。


涼子はマイクケースの上に手を置いたまま、

そっと目を閉じた。


沈黙――。

それは、夢と現実のあいだに落ちる夜の音だった。

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