涼子の動揺
涼子は、言葉を探そうとして、喉の奥でそれを失った。
唇がわずかに動く――けれど、声にはならない。
風が通り抜け、赤い砂が舞う。
その砂の向こうで、少女は壊れたラジオを抱きしめたまま、じっと座っていた。
ひび割れた金属の表面に、夕陽の赤が反射する。
そして、その沈黙こそが、彼女の“答え”であるかのように思えた。
音はない。
だが、その“無音”が、どんな言葉よりも雄弁だった。
涼子は視線を落とし、微かに呟く。
「……贅沢、か……。」
その声は、火星の風の中に溶けて消えた。
返す言葉を持たないまま、涼子はただ、ラジオの沈黙を聴いていた。
――贅沢。
その言葉が、胸の奥でゆっくりと響いた。
涼子は目を伏せ、息を吐く。
それは、わずかに震える呼吸だった。
(モノローグ/涼子)
「……地球では、息をすることも、歌うことも、当たり前だった。
酸素も、声も、無限にあると思ってた。
でも、ここでは――それが“特権”なんだ。」
思考のひとつひとつが、胸の奥に沈殿していく。
火星の冷たい空気が、肺の奥に重くのしかかる。
その痛みが、まるで罰のように感じられた。
脳裏に、かつてのステージが浮かぶ。
ライトの眩しさ、観客の歓声、響き渡るメロディ。
あの頃の自分は、ただ“音”に包まれて生きていた。
息のありがたさも、沈黙の意味も知らないままに。
――そして今、音のないこの星で。
涼子は初めて、「生きて歌う」という言葉の重みを知った。
――眩しいライト。
汗ばむ掌に、マイクの冷たさ。
視界の先には無数の光。観客のざわめきが波のように押し寄せてくる。
息を吸う。
肺が膨らみ、胸の奥が熱を帯びる。
その一呼吸が、音へと変わり、ステージを震わせていく。
(回想の中の涼子)
「もっと歌いたい。もっと高く、もっと遠くへ。」
――その願いは、限りない空を信じるような純粋な衝動だった。
彼女は、音が尽きることを知らなかった。
酸素が、無限にあると思っていた。
拍手。歓声。照明の光が瞳を焼く。
その眩しさの中で、涼子は“息”という存在の重みを知らぬまま歌っていた。
だが今――火星の薄い空気の下で、
一呼吸ごとに喉が軋むたびに思い知る。
あの頃の自分の声は、“贅沢”の音だったのだ。
風の音が、ふっと途切れた。
赤い砂が静かに舞い、世界がまた“無音”へと沈んでいく。
涼子は顔を上げ、少女を見つめる。
少女は壊れたラジオを抱きしめたまま、空を見上げていた。
その表情は、不思議なほど穏やかで――まるで、何かを“待っている”ようだった。
音を。
声を。
あるいは、この星のどこかにまだ残る“息づかい”を。
涼子は胸の奥に疼く感覚を覚える。
その姿は、かつての自分と重なっていた。
――音を求め、誰かの声を信じていた頃の、自分。
(モノローグ/涼子)
「歌は、もう贅沢なんかじゃない。
……この星では、息と同じ。“生きる音”なんだ。」
言葉にせずとも、彼女は理解していた。
この沈黙の星にも、確かに“音”はある。
それは誰かの歌ではなく、
ただ、生きようとする者の呼吸そのもの――。
沈黙の中で――ふいに、かすかな音が生まれた。
「チリ……チリ……」
ラジオの奥から漏れるそのノイズは、まるで呼吸のように微弱で、それでも確かに“生きていた”。
涼子は目を瞬かせ、息を詰める。
その音に、胸の奥がじんと熱くなる。
知らず、頬を伝った一筋の涙が、赤い砂に落ちた。
それは悲しみではなかった。
ようやく“沈黙”の意味を理解した涙だった。
――沈黙とは、音が消えた世界ではなく、
次の“声”を待つ時間のこと。
涼子はそっと膝をつき、少女の隣に座る。
ラジオに手を伸ばし、割れた金属の継ぎ目を指先で確かめた。
(モノローグ/涼子)
「この子の“声”を、取り戻そう。
――それはきっと、私の“息”を取り戻すことだから。」
赤い光の中、涼子の指先が動き始める。
ラジオの沈黙を破るために。
そして、自分の中に眠っていた“音”を呼び覚ますために。




