出会い ― 火星の子供
薄闇に沈む路地裏で、涼子は足を止めた。
そこだけ時間が止まったように、静かだった。
赤い砂の積もる壁際に、ひとりの少女がしゃがみこんでいる。
髪は火星の砂と同じ淡い色で、光に透けるたび、儚い光を返した。頬はこけ、唇は乾き、吐く息はかすかに白い。
その腕の中には、ひび割れた金属の箱――旧式のラジオが抱えられていた。
アンテナは折れ曲がり、むき出しの配線が垂れている。
少女は何度もスイッチを押したり、つまみを回したりしていた。
だが、そこから音は一つも生まれない。
ただ、世界の底から漏れるような沈黙だけが、空気を満たしていた。
涼子は無意識に息を詰めた。
その静けさが、なぜか胸の奥を強く締めつける。
――音のない場所。
それは、かつての自分には想像もできなかった世界だった。
ライトの眩しさ、観客のざわめき、モニター越しに響く歓声。
あの頃、彼女は“音”に包まれて生きていた。
音こそが呼吸であり、存在そのものだった。
けれど今は違う。
火星の空の下では、音は贅沢で、息を奪うものだった。
それでも――彼女はまだ、音を探している。
沈黙の中に、何かを聴こうとしている。
涼子はそっと口を開いた。
「……それ、動かないの?」
少女がゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、驚くほど澄んでいた。
少女は小さく首を横に振った。
その動きは風に揺れる羽のように、静かで、かすかだった。
「うん。でもね、時々、風が通ると“声”がするの。」
か細い声が、ひどく澄んで響いた。
涼子は思わず息をのむ。
“声”――彼女の口からこぼれたその一言に、胸の奥が震えた。
風の音。電子のざらつき。途切れた波の揺らぎ。
この星では、それすらも“生きている音”になる。
誰かの息でも、誰かの鼓動でもなく、ただ風が機械の隙間を通り抜ける音。
それを、少女は「声」と呼んだ。
涼子はそっと一歩、近づく。
錆びた鉄の匂いが鼻をかすめる。
ラジオの表面には、無数のひびと手の跡が残っていた。
少女の小さな手がどれほど何度もこの箱を抱きしめてきたのか――その跡が物語っている。
「……触ってもいい?」
そう言いながら、涼子はラジオに指を伸ばした。
だが次の瞬間、少女がそれを抱きしめ、身を固くした。
まるで、大切な命を守るかのように。
涼子は動きを止めた。
少女の腕の中で、ラジオがかすかに「チ……」と鳴った気がした。
それは確かに、**この沈黙の世界で生き残った“声”**だった。
短い沈黙が落ちた。
風も、砂も、音を立てない。
その静寂の底で、少女がぽつりと呟いた。
「ねぇ、お姉ちゃん。地球人って、贅沢ね。」
声は小さく、けれど不思議なほどはっきりと響いた。
淡々としているのに、刃物のように胸に刺さる。
涼子は思わず息を呑んだ。
言葉の意味を理解するより先に、心が反応した。
“贅沢”――それは、酸素でも、食料でもない。
音を失っても困らない世界。
沈黙に価値を感じるほど、満たされていた世界。
――自分が、そこにいた。
かつて、音楽が溢れる場所で、呼吸するように歌っていた。
ステージの光、歓声、拍手の波。
すべてが当たり前だった。
息をすることも、音を出すことも、努力の結果ではなかった。
でも今、この火星では――
ひとつの“音”を聴くために、人は命を削る。
空気を分け合い、声を交わすことさえ、祈りのようだ。
涼子はゆっくりと目を伏せた。
胸の奥に、酸素よりも冷たい痛みが広がっていく。
少女の言葉が、彼女の中で静かに沈み、
“呼吸”と“音”が再び同じ意味を取り戻していく。
沈黙の時間を、ほんのかすかな音が裂いた。
「チリ……チリ……」
古びたラジオの中で、微弱な電流が走る。
それは風が鉄片をかすめた音にも似て、
けれど確かに、“何かが生きている”と告げる響きだった。
少女が顔を上げ、ほほえむ。
頬にこびりついた赤い砂が、光を受けてかすかに揺れた。
「ほら。今、声がした。」
その言葉は、淡い息のように消えていく。
だが涼子には、確かに聞こえていた。
機械の中に残った、誰かの記憶のような“音”。
涼子は目を閉じ、耳を澄ます。
そのノイズは、歌ではない。
旋律も、言葉もない。
けれど――生きようとする鼓動だけが、そこにあった。
それは、どんな歌よりも切実な“生の証”。
涼子の胸の奥で、何かが静かに鳴り始めた。




