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MARS☆IDOL ☆赤い星のシンフォニー☆  作者: 南蛇井


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28/61

出会い ― 火星の子供

薄闇に沈む路地裏で、涼子は足を止めた。

 そこだけ時間が止まったように、静かだった。


 赤い砂の積もる壁際に、ひとりの少女がしゃがみこんでいる。

 髪は火星の砂と同じ淡い色で、光に透けるたび、儚い光を返した。頬はこけ、唇は乾き、吐く息はかすかに白い。

 その腕の中には、ひび割れた金属の箱――旧式のラジオが抱えられていた。


 アンテナは折れ曲がり、むき出しの配線が垂れている。

 少女は何度もスイッチを押したり、つまみを回したりしていた。

 だが、そこから音は一つも生まれない。

 ただ、世界の底から漏れるような沈黙だけが、空気を満たしていた。


 涼子は無意識に息を詰めた。

 その静けさが、なぜか胸の奥を強く締めつける。

 ――音のない場所。

 それは、かつての自分には想像もできなかった世界だった。


 ライトの眩しさ、観客のざわめき、モニター越しに響く歓声。

 あの頃、彼女は“音”に包まれて生きていた。

 音こそが呼吸であり、存在そのものだった。


 けれど今は違う。

 火星の空の下では、音は贅沢で、息を奪うものだった。

 それでも――彼女はまだ、音を探している。

 沈黙の中に、何かを聴こうとしている。


 涼子はそっと口を開いた。


「……それ、動かないの?」


 少女がゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は、驚くほど澄んでいた。



 少女は小さく首を横に振った。

 その動きは風に揺れる羽のように、静かで、かすかだった。


「うん。でもね、時々、風が通ると“声”がするの。」


 か細い声が、ひどく澄んで響いた。

 涼子は思わず息をのむ。

 “声”――彼女の口からこぼれたその一言に、胸の奥が震えた。


 風の音。電子のざらつき。途切れた波の揺らぎ。

 この星では、それすらも“生きている音”になる。

 誰かの息でも、誰かの鼓動でもなく、ただ風が機械の隙間を通り抜ける音。

 それを、少女は「声」と呼んだ。


 涼子はそっと一歩、近づく。

 錆びた鉄の匂いが鼻をかすめる。

 ラジオの表面には、無数のひびと手の跡が残っていた。

 少女の小さな手がどれほど何度もこの箱を抱きしめてきたのか――その跡が物語っている。


「……触ってもいい?」

 そう言いながら、涼子はラジオに指を伸ばした。


 だが次の瞬間、少女がそれを抱きしめ、身を固くした。

 まるで、大切な命を守るかのように。


 涼子は動きを止めた。

 少女の腕の中で、ラジオがかすかに「チ……」と鳴った気がした。

 それは確かに、**この沈黙の世界で生き残った“声”**だった。


 短い沈黙が落ちた。

 風も、砂も、音を立てない。


 その静寂の底で、少女がぽつりと呟いた。


「ねぇ、お姉ちゃん。地球人って、贅沢ね。」


 声は小さく、けれど不思議なほどはっきりと響いた。

 淡々としているのに、刃物のように胸に刺さる。


 涼子は思わず息を呑んだ。

 言葉の意味を理解するより先に、心が反応した。

 “贅沢”――それは、酸素でも、食料でもない。

 音を失っても困らない世界。

 沈黙に価値を感じるほど、満たされていた世界。


 ――自分が、そこにいた。


 かつて、音楽が溢れる場所で、呼吸するように歌っていた。

 ステージの光、歓声、拍手の波。

 すべてが当たり前だった。

 息をすることも、音を出すことも、努力の結果ではなかった。


 でも今、この火星では――

 ひとつの“音”を聴くために、人は命を削る。

 空気を分け合い、声を交わすことさえ、祈りのようだ。


 涼子はゆっくりと目を伏せた。

 胸の奥に、酸素よりも冷たい痛みが広がっていく。


 少女の言葉が、彼女の中で静かに沈み、

 “呼吸”と“音”が再び同じ意味を取り戻していく。



沈黙の時間を、ほんのかすかな音が裂いた。


 「チリ……チリ……」


 古びたラジオの中で、微弱な電流が走る。

 それは風が鉄片をかすめた音にも似て、

 けれど確かに、“何かが生きている”と告げる響きだった。


 少女が顔を上げ、ほほえむ。

 頬にこびりついた赤い砂が、光を受けてかすかに揺れた。


「ほら。今、声がした。」


 その言葉は、淡い息のように消えていく。

 だが涼子には、確かに聞こえていた。

 機械の中に残った、誰かの記憶のような“音”。


 涼子は目を閉じ、耳を澄ます。

 そのノイズは、歌ではない。

 旋律も、言葉もない。

 けれど――生きようとする鼓動だけが、そこにあった。


 それは、どんな歌よりも切実な“生の証”。


 涼子の胸の奥で、何かが静かに鳴り始めた。




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