“雑音”の向こうに
涼子は細い路地の入口に立ち、足を踏み入れた。
赤い砂がうっすらと積もり、ブーツの底がそれを押しつぶすたび、
「ザリ……ザリ……」と乾いた音を立てた。
奥へ進むほどに、光が薄れ、空気が冷えていく。
さっきまで背後にあった人の声や、機械の唸り――
それらが少しずつ遠のき、やがて完全に消えた。
残るのは、自分の呼吸と足音だけ。
そのどちらも、この惑星の空気に吸い込まれていくようだった。
涼子は立ち止まり、耳を澄ませる。
風もない。振動もない。
ただ、沈黙だけが生きている。
> 「……音が、ない。」
呟いた声が、自分の中に沈んでいった。
胸の奥で、何かが軋むように鳴る。
――音を、探している。
そう気づいたとき、涼子の瞳にかすかな焦りが灯った。
――チリ……チリ……。
静寂の底で、かすかな音が生まれた。
最初は耳鳴りかと思った。
だがそれは確かに、空気の中で震えている。電子ノイズのようで、火花のようでもある。
涼子は息を止め、音の方向へと顔を向けた。
乾いた砂の上を踏みしめながら、ゆっくりと歩を進める。
一歩、また一歩――。
無音の世界に、そのわずかな「チリ……チリ……」が導くように響いた。
通路の奥は崩れかけていて、壁のひびから冷たい風が漏れていた。
光の届かないその影に、小さな人影が見えた。
少女がいた。
膝を抱え、古びたラジオを胸に抱きしめている。
表面は割れ、アンテナは折れ曲がっていたが、ダイヤルの隙間からは不思議と微弱な音が漏れていた。
――チリ、チリ……。
少女の指がラジオのつまみをなぞるたび、ノイズが一瞬だけ息を吹き返す。
その様子は、まるで死にかけた音を必死に繋ぎとめているようだった。
涼子は、無意識に立ち止まっていた。
胸の奥で、何かが小さく脈打つ。
“音”が、まだここにある――そう思った。
少女の髪は、火星の砂に溶けるような淡い砂色をしていた。
風が吹くたび、細い髪がふわりと舞い、赤い光を受けてきらりと揺れる。
頬はやせ細り、唇はひび割れて白く乾いている。
それでも――その瞳だけは、驚くほど透き通っていた。
まるでこの荒れた世界とは無縁の、水の底のような静けさをたたえて。
少女の腕の中には、古びたラジオ。
割れたスピーカーの隙間から、かすかに音が漏れていた。
――チリ……チリ……。
ノイズが空気をかすめ、薄い風の中に溶けていく。
砂の舞う音、塔の遠い唸り、そのすべてが掻き消えても――
その“雑音”だけは、確かにここで生きていた。
涼子は、息を呑む。
それは壊れかけの機械が発する音ではなく、
まるでこの星そのものが、かすかに心臓を動かしているような――そんな“息づかい”だった。
涼子は、足を止めたまま動けなかった。
壊れたラジオから漏れる微かな“チリ……チリ……”という音が、
胸の奥を掴むようにして離さない。
――地球では、音は溢れていた。
街の喧噪、拍手の渦、ライトの下で響く自分の歌声。
音に包まれて、音に生かされて、音にすがっていた。
けれど、今――この火星の片隅で、
涼子が惹かれているのは、旋律でも言葉でもない。
ただの“雑音”。
誰も気にも留めない、壊れかけの機械の息。
――どうして、こんな音が、こんなにも温かいんだろう。
胸の奥が、じんわりと痛む。
自分が求めていた“音”は、
いつの間にか形を変えていたことに、気づいてしまう。
> (モノローグ/涼子)
「……ここにも、音がある。」
少女がふと、顔を上げた。
その動きは、壊れたラジオの針がわずかに跳ねた瞬間のように、
小さく、しかし確かに世界の“沈黙”を破った。
涼子と視線が合う。
互いに言葉はなかった。
ただ、火星の薄い夕光が二人の間をゆっくりと流れ、
舞い上がる粉塵が、赤い粒子のように光を散らしていた。
風が――ほとんど感じられないほどの微かな風が――
二人の髪を揺らす。
ラジオの「チリ……チリ……」という音が、
その静寂の中でかすかに脈打つ。
まるで、この星が二人の呼吸を記録しているかのように。
涼子は、ゆっくりと一歩、少女のほうへ踏み出した。
それは――終わりへ向かう一歩であり、
同時に、新しい“音”へと続く最初の一歩だった。




