火星の息づかい
――太陽が、赤い砂の向こうに沈みかけていた。
空は灰と金の境界線を曖昧に溶かし、酸素塔の影が長く地を這う。
ぽつり、ぽつりと街灯が点る。
白く、無機質な光。だが、その明かりの一つひとつが、
この星に残された「人の営み」の証のようにも見えた。
三人は、言葉を交わさずに歩いていた。
足音だけが、乾いた地面に規則的なリズムを刻む。
それは、まるで心臓の鼓動が形を変えたかのような音。
(涼子・モノローグ)
「静かなのに――何かが、生きている。」
涼子は歩きながら、ほんの少しだけ目を閉じた。
静寂の中に、かすかな呼吸のような“揺らぎ”を感じる。
誰のものでもない、火星という星そのものの息づかい。
隣では香菜が、録音機を胸に抱いていた。
彼女の指先は、冷たい金属の縁をそっとなぞる。
“沈黙の中の歌”――
そう名づけたデータが、まだ微かな熱を持っているような気がした。
玲美は何も言わず、遠くにそびえる塔のシルエットを見つめていた。
その目は静かで、どこか確信めいた光を宿している。
沈黙の街に灯がともり、風が音を運ばなくなった世界で――
三人だけが、確かに“生きている”と感じていた。
――足音が止まった。
街灯の光が三人の顔を淡く照らす。
赤錆びた壁に、三つの影が静かに揺れていた。
しばらくの沈黙のあと、玲美がぽつりと呟いた。
玲美:「夢は、きっと“上”にはないんだね。」
その声には、疲れや諦めではなく、
長い呼吸のあとにたどり着いた“理解”の静けさがあった。
“上”――地球の青空、そしてこの火星での高層区画。
人々が「自由」と呼ぶその場所を、彼女はもう見上げてはいなかった。
香菜が録音機を見つめながら、微かに笑う。
香菜:「……“息”のあるところ、かな。」
彼女の指が、録音機の表面を軽く叩く。
小さな「コツン」という音が、冷たい空気に吸い込まれる。
それはまるで、彼女自身の“呼吸のリズム”のようだった。
――音があるところに、命がある。
その事実だけが、彼女の中で確かな真実になっていた。
涼子が空を見上げ、深く息を吸い込む。
薄い酸素の中で、それでも胸が満たされていく。
涼子:「うん。音のある場所で、生きたい。」
その言葉は、囁きのように優しく、
けれど風よりも力強く、二人の心に届いた。
誰も続けて言葉を発しなかった。
けれど、三人の間には確かに“音”があった。
それは言葉よりも深く、酸素よりも静かで、
――呼吸と呼応するような、心の共鳴。
火星の夕闇がすべてを包み込む中、
彼女たちの沈黙だけが、確かに生きていた。
――そのときだった。
遠く、霞む空の向こう。
酸素塔の群れのひとつが、ゆっくりと脈打つように白い蒸気を吐き出した。
次の瞬間、低く長い“風音”が街全体を包み込む。
「ゴオォォォ……」
金属と風が擦れ合い、どこか生き物の胸の奥から漏れるような音。
それは機械の呼吸であり、同時に――この星そのものの“息づかい”だった。
三人は立ち止まり、音の方角を見上げる。
赤い砂が風に舞い、彼女たちの髪を柔らかく揺らす。
その一粒一粒が光を反射し、沈みかけた太陽の下でかすかな輝きを放っていた。
玲美は目を細め、香菜は録音機をそっと構える。
そして涼子は、ただ静かに目を閉じ――耳を澄ませた。
聞こえるのは、塔の低い唸り。
そして、自分たちの呼吸。
二つのリズムが重なり合い、
まるで火星そのものが、彼女たちと一緒に呼吸しているように思えた。
(モノローグ/涼子)
「この星も、まだ息をしてる。
人がいる限り、音は途絶えない。」
風がやみ、沈黙が戻る。
だが、もう“静寂”ではなかった。
そこには確かに、見えない生命の音があった。
塔の灯が、ふっと息を吹き返したように強く光を放った。
街の輪郭が淡い赤に染まり、照明のひとつひとつが夜を押し返すように点いていく。
その光の中で、三人の影がゆっくりと動き出した。
赤い砂を踏む音――乾いたリズム。
それが、不思議と心地よく響く。
香菜の手の中で、録音機の小さなランプが点滅を始める。
「ピッ」と短い電子音。
モニターには、かすかに揺らめく波形。
ノイズ混じりのその線が、まるで“火星の鼓動”のように震えていた。
玲美がその光を横目で見て、かすかに微笑む。
涼子は前を見据えたまま、薄く唇を動かす。
それは言葉にならない――けれど確かに、未来へと続く“音”だった。
遠く、塔の白い蒸気が夜空に溶けていく。
誰もそれを見上げない。
けれど三人の歩みは、静かにその方角へと向かっていた。
(モノローグ/香菜)
「記録は、届く。たとえ距離が何億キロあっても。
この音が、まだ“生きてる”ことを伝えるために。」
赤い光の中、三人の背中が小さく遠ざかる。
録音機の“REC”ランプだけが、規則的に瞬き続けていた――
まるで、星そのものの心臓のように。




