ルーク再登場 ― 音のない街で
赤錆びた通路が、果てしなく続いていた。
壁のパネルには「O₂ TRANSPORT BAY」の文字がかすれ、照明は点滅を繰り返す。
かつて無数のドローンが飛び交い、空気と物資を運んでいたはずの整備街――今は、風さえも動かない。
玲美たち三人は、慎重に足を進めていた。
足元の砂が、かすかに「シャリ」と鳴る。それ以外、何の音もない。
香菜が録音機を構えたが、拾われるのは無音ばかり。
音を失った空気の中で、電子機器の小さなノイズがやけに響く。
香菜:「……音が、ないね。」
その呟きに、涼子が立ち止まる。
視界の先――停止したドローン群が整然と並び、まるで墓標のように沈黙を守っている。
香菜は録音機を両手で抱え、マイクをそっと宙に向けた。
スイッチを入れても、波形はほとんど動かない。
「録音中」の赤いランプだけが、かすかに瞬いていた。
香菜:「……何も、録れない。」
その呟きは、誰にも届かずに空気の中で溶けた。
風のない通路、止まった機械、沈黙する街――音のすべてが、どこかへ逃げてしまったようだった。
涼子はマスクの内側で浅く息を吐いた。
酸素の薄い空気が肺の奥で重く滞り、鼓動の音だけが身体の内側から響く。
涼子:「……音がないって、こんなに苦しいんだ。」
彼女にとって音楽は、呼吸と同じだった。
音を失うことは、生を失うことに似ている。
玲美は無言のまま、灰色の空を見上げた。
かつて地球で見た青とは違う――そこにはただ、乾いた光だけがある。
そのとき、遠くの空間をかすめるように、低く唸る音が聞こえた。
「ブゥゥゥン……」
――ドローンのローター音。
途切れた世界の中で、それだけが、確かに“生きた音”として響いていた。
赤い砂塵の向こうから、低い機械音が近づいてきた。
やがて煙の中から、ひとりの青年が姿を現す。
整備服は油と砂にまみれ、肩には工具がぶら下がっている。
片手にはドローンのプロペラ、もう片方の手は深く煤で汚れていた。
その顔を見た瞬間――涼子が小さく息を呑む。
涼子:「……ルーク?」
青年は目を細め、かすかに笑った。
その笑みには、以前の軽やかさはない。
頬はこけ、目の下には深い隈が刻まれていた。
ルーク:「ああ……君たちか。まだ“音”を探してるのか?」
涼子たちは思わず顔を見合わせる。
あの日、輸送ベイで別れた青年が、今はこの“音のない街”で機械と向き合っていた。
ルークは傍らの機体に膝をつき、ドローンの配線を確かめながら続ける。
床には修理途中の機体がいくつも転がり、酸素ボンベを積んだまま動かないものもある。
ルーク:「こいつら、酸素を運ぶためのドローンなんだ。
でも最近は部品が手に入らなくて、まともに飛ばねぇ。」
言葉と同時に、ドローンの羽根が一度だけ回転した。
金属の擦れる音が短く鳴り、すぐに沈黙に飲み込まれる。
その“音の消失”が、この街の現実そのもののように思えた。
玲美が少し歩を進め、ドローンの影に立つ青年を見つめた。
油に濡れた整備服の背中は、何度も繕われており、まるでこの街そのもののようにくたびれている。
玲美:「ここで整備してるの? もう誰も使ってないって聞いたけど。」
ルークは肩をすくめ、手にしていたスパナを静かに置いた。
指先まで黒く染まった手を作業布で拭いながら、ゆっくりと答える。
ルーク:「誰も“使わない”。でも、誰かが“動かさなきゃ”止まるだけだ。
この星は、音を出す余裕がない。だから、誰かが鳴らさないと。」
金属音のような声だった。
疲れきっているのに、芯のある響きがまだ残っている。
涼子はその言葉に顔を上げ、思わず問い返した。
涼子:「“鳴らす”って……音楽のこと?」
ルークはかすかに笑う。
その笑みは乾いていて、どこか痛々しい。
ルーク:「いや、何でもいい。声でも、ノイズでも。
沈黙よりマシさ。沈黙は、死と同じだから。」
沈黙――その言葉が、赤い砂の空気に吸い込まれていく。
その瞬間、涼子の胸の奥で、遠い記憶がふと呼吸した。
ステージのライト、観客のざわめき、マイクに響く自分の声。
彼女は思い出す。音を出すことが、どれほど生きる証だったかを。
目の前のルークの瞳には、かつて夢を語った時の光がまだ微かに残っていた。
けれど、その周囲を覆う現実の灰色が濃すぎて、その光は今にも消えそうだった。
ルークは足元のケーブルを繋ぎ直し、電源スイッチを押した。
次の瞬間、整備場の空気がかすかに震えた。
「ウゥゥゥン……」
低く、不安定な振動音。
ドローンのローターがゆっくりと回転を始め、赤い砂を巻き上げる。
まるで、長い眠りから覚めた獣が息を吐くようだった。
ルーク:「な、悪くないだろ? こいつらが飛ぶ音……俺には歌に聞こえるんだ。」
彼の声は、どこか少年のように柔らかかった。
整備服の隙間から漏れる酸素の音さえ、今はひとつのリズムのように思える。
涼子はその音を聴きながら、そっと目を閉じた。
機械の振動が、胸の奥まで響いてくる。
音は歪んでいる。途切れがちだ。
それでも確かに――生きていた。
彼女は静かに息を吸い、吐く。
音の波に、呼吸を合わせる。
まるでステージに立つ前、スポットライトを待つ瞬間のように。
モノローグ(涼子):
「沈黙の中にも、鼓動はある。
この星にも、歌う理由がある。
それが、たとえ“酸素の無駄遣い”でも――。」
ドローンのローターがさらに速度を上げる。
風が彼女の髪を揺らし、灰色の空を切り裂くように、ひとすじの音が広がった。
それは機械の悲鳴であり、同時に、火星の大地が初めて発した“旋律”だった。
ルークの操縦するドローンが、ゆっくりと浮き上がった。
赤い砂を巻き上げながら、機体は薄い空気の中を軋むように進む。
そのローター音は、かすかに震えながらも確かに空を切り裂き――やがて、遠くの霞へと溶けていった。
風の音が止む。
再び、街に“沈黙”が戻ってくる。
だがその静寂は、もう以前のような“死んだ音”ではなかった。
耳を澄ませば、どこか遠くで金属の共鳴が微かに続いている。
まるで、火星の心臓がゆっくりと鼓動を打ち始めたように。
香菜が、そっと録音機を構える。
小さな赤いランプが点滅し、無音の街を記録し始めた。
香菜:「この音……“沈黙の中の歌”。」
その声は、静かに空へ吸い込まれていく。
玲美が隣で微笑む。
酸素の少ない空気の中でも、彼女の笑顔は確かに息づいていた。
玲美:「悪くないタイトルね。」
その瞬間、三人の間に、風が通り抜ける。
無音の街に、かすかな音が生まれる――呼吸と、言葉と、希望の音。




