セラ医師 ― 笑顔の診療所
アーネストとの出会いから数日後。
三人は、下層居住区への通行ゲートを抜けていた。
火星の街でも、ここは最も酸素濃度の低い区域。
壁面に埋め込まれた蛍光灯はちらつき、通路を照らす光はどこか頼りない。
足元には、使い古された酸素タンクが無造作に積まれ、時折、弁の隙間から「シュー」と微かな漏気音を立てていた。
息を吸うたび、胸の奥が少し重くなる。
それでも三人は、無言のまま歩を進めた。
遠くから、子どもの笑い声が聞こえる。
だがその合間に、乾いた咳の音が混じっていた。
その不揃いなリズムは、まるで“音”そのものが息苦しさを抱えているようだった。
香菜が足を止め、耳を澄ます。
頬をかすめる風は冷たく、鉄と薬品の匂いを運んでくる。
「……音が、揺れてる」
小さく漏らした彼女の声に、涼子が振り向いた。
その横顔は、ぼんやりとした照明に照らされて、灰色の陰を帯びている。
涼子:「笑い声と、咳の音……」
玲美:「両方、生きる音だね。」
玲美は手帳を閉じ、静かに言った。
言葉の端には、どこか震えるような哀しみが混じっていた。
――この星では、“生きる”という行為そのものが、呼吸と同じくらい不安定だ。
三人が目指すのは、その不安定な生命を支えるというひとりの女性のもと。
「奇跡の診療所」と呼ばれる場所。
下層の子どもたちに、無償で医療と酸素を分け与える――火星でも稀有な存在。
薄暗い通路の先に、青白い光が滲んで見えた。
その中心に、小さな診療所のドアが、静かに彼女たちを待っていた。
診療所の扉を開けた瞬間、鼻を刺すような消毒液の匂いと、金属の酸い匂いが混ざって流れ込んできた。
中は狭く、壁際に中古の酸素タンクが整然と並び、天井から吊るされた照明が静かに揺れている。
医療ベッドは一つだけ。シーツの端には、子どもの描いたらしい絵が貼られていた。
その奥で、白衣の女性が古びたモニターを見つめていた。
肩までの髪を無造作に束ね、目の下には薄い隈。
けれど、その表情は不思議と落ち着いていて――彼女の存在そのものが、この場所の中心で呼吸しているように見えた。
香菜が声をかけようと一歩踏み出した瞬間、ふっと視界が揺らいだ。
胸の奥が締めつけられ、足元がふらつく。
「……っ」
膝が折れかけたそのとき、白衣の女医が素早く振り向いた。
表情を変えずに距離を詰め、片手で棚から小型の酸素パックを取り出すと、無言で香菜の前に差し出した。
「吸って。焦らないで。」
低く、しかし驚くほどやわらかな声。
香菜は言われるままにマスクを口元に当て、ゆっくりと息を吸い込んだ。
冷たい酸素が喉を通り、肺の隅々まで染み渡っていく。
胸の圧が少しだけほどけ、肩の力が抜けた。
女医――セラは、そんな香菜の様子を確かめてから、ほんのわずかに微笑んだ。
「この星ではね、“笑う”ことにも体力がいるの。」
その言葉に、香菜の胸の奥がかすかに震えた。
言葉の意味はすぐには理解できなかったが、
その声音の優しさが、地球で聞いたどんな音よりも温かく響いていた。
酸素の冷たさと、声のぬくもり。
その対比が、香菜の中に深く刻まれていく。
診療所の奥で、低く不安定な電子音が鳴っていた。
「ピッ……ピッ……ピ――」
まるで、誰かの鼓動が機械の中で迷っているかのようだった。
音の合間に、古い空調の送風が「シュー」と漏れ、天井の蛍光灯がかすかに瞬く。
ここでは、すべての“生”が、人工のリズムの上で辛うじて保たれている。
香菜は椅子に腰を下ろし、耳を澄ませた。
ノイズ混じりのその電子音に、なぜか安堵を覚える。
静寂よりも、少しでも“動いている音”の方が、まだましに思えた。
「この音……火星の“呼吸”みたい。」
そう呟くと、セラは小さく頷き、モニターの表示を確かめながら微笑んだ。
「そうね。止まらない限り、まだ生きてるってことよ。」
その笑顔は穏やかだった。けれど、その頬にはわずかな青白さが浮かんでいた。
酸素の足りない空気の中で笑うこと――それは、この星では小さな贅沢だ。
香菜はその音を録音機に残した。
ノイズ、空気の漏れる音、電子音。
それらが混ざり合い、一つの“火星の心音”として刻まれていく。
玲美はカルテの山の向こうで忙しく動くセラの姿を見つめていた。
酸素パックの補充、点滴の調整、子どもたちへの短い声かけ。
その一つひとつの動作が、まるで精密な儀式のように慎重だった。
やがて、玲美は思わず問いかけていた。
「どうして……こんな場所で続けているんですか?」
セラは手を止め、古びた医療端末のモニターを見つめた。
画面には、酸素残量を示すバーが赤く点滅している。
少しの沈黙ののち、彼女はかすかに笑って答えた。
「地球の医者は、患者を“治す”ために働く。
でも、ここでは“生かす”ことだけで、もう十分なの。」
その声は、驚くほど静かだった。
諦めでも悲観でもない、ただ事実を述べる声。
玲美は息を呑んだ。
その言葉の重さが、薄い空気よりも深く胸に沈んでいく。
――この星では、“延命”が“希望”なのだ。
セラの横顔を見ながら、玲美は思った。
地球で「当然」だった生の定義が、ここではすでに別の意味を持っている。
それでも、この小さな診療所の中には、確かに“命の音”が響いていた。
香菜はバッグの中から、小さな録音機を取り出した。
銀色のボディに微かな傷が走り、スイッチを入れると「ピッ」という音が響く。
彼女はそっと机の上に置き、録音を開始した。
――診療所の音が、すべてそこに流れ込んでいく。
古い酸素機の低い唸り。
子どもが咳き込みながらも笑う声。
点滴が落ちる小さな音。
そして、どこかで鳴る電子モニターの不規則なビープ。
それらが混ざり合い、まるで火星そのものが“息をしている”ようだった。
セラがそれに気づき、少しだけ眉を上げる。
「そんな音、誰が聴くの?」
香菜は録音機を見つめながら、静かに答えた。
「……地球の人たちに。
火星の“静けさ”の中にも、生きてる音があるって、伝えたいんです。」
セラは短く息を吐き、微笑んだ。
それは疲れを滲ませながらも、確かな温かさを宿した笑みだった。
「いい名前をつけてあげて。」
香菜は小さく頷き、録音データのタイトルを入力する。
―― MARS BREATH(火星の音)
画面の小さな文字が確定する。
その瞬間、録音機のランプが赤く点滅し、
診療所の音が、確かに“記憶”として息づき始めた。
診療所の照明は、かすかに明滅していた。
白い壁には酸素タンクの影が長く伸び、薄い赤錆のような色が差している。
セラは無言で、幼い子どもの顔に酸素マスクをそっとあてがった。
透明な管の先から、静かに酸素が流れ出す。
「シュウ……」という音が、診療所全体を包み込む。
子どもがゆっくりと息を整え、かすかな笑顔を浮かべた。
セラもそれに応えるように、微笑む。
その笑顔は、決して完璧ではない。
けれど、誰よりも確かな“生命”の証だった。
背後では、古びた生命維持装置が一定のノイズを鳴らし続けている。
「ピッ……ピッ……ピ――」
その音が、まるでこの星の心臓の鼓動のように、途切れず続いていた。
カメラがゆっくりと引いていく。
診療所の灯が、暗い下層区画の中でひとつだけ、静かに瞬いている。
――そして、音だけが残る。
笑い声。
金属の軋み。
呼吸のリズム。
それらが混ざり合い、やがて画面いっぱいに広がっていく。
不完全で、歪で、それでも確かに生きている音。
涼子:
「この星の笑顔は、酸素でできてる。
でも、きっとそれ以上に――強い。」
赤い惑星の静寂の中で、その“笑顔のノイズ”だけが、いつまでも鳴り続けていた。




