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MARS☆IDOL ☆赤い星のシンフォニー☆  作者: 南蛇井


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アーネスト老人 ― 酸素を“作った”男

薄い空気の中、金属の匂いと乾いた砂の匂いが混じっていた。


三人が立っているのは、地図の端にも載らない旧式の酸素補給ステーション。

壁にはかつての企業ロゴがかすかに残り、塗装は風化して剥がれ落ちている。

天井近くの警告灯だけが、一定の間隔で赤く点滅し、静寂を区切っていた。


足元には、使い捨ての酸素カートリッジが無数に散らばっている。

一歩踏み出すたび、「カラリ」と乾いた音が響き、まるで空気の代わりに錆が鳴っているようだった。


香菜が顔をしかめて呟く。


「……ここ、まだ動いてるの?」


玲美は端末を確認し、眉をひそめた。


「公式データじゃ“閉鎖済み”。でも……電力は生きてるみたい。」


その時だった。


背後から「ギギィ……」という金属の軋みと、ガスレンチを回す音が響く。

三人が一斉に振り向くと、薄暗いタンク群の陰に、ひとりの老人がいた。


煤けた作業服。油にまみれた手。

白髪は風に揺れ、皺の刻まれた顔に、人工灯の赤がちらりと映える。


老人は黙々とパイプを外し、酸化したバルブを調整していた。

動きは遅いが、どこか熟練の正確さがあった。


涼子が小さく息を呑む。

その横顔には、ただの労働者ではない何か――「技術」を知る者の風格があった。


そして、老人がレンチを置き、ようやくこちらに視線を向ける。


「観光か? こんな錆びた空気を吸いに来るなんて、物好きだな。」


その声は低く、乾いた風よりも深かった。


玲美が慎重に名乗ると、老人は少しだけ笑った。


「俺の名はアーネスト。……昔は“酸素を作った男”なんて呼ばれてたもんだ。」


白い蒸気がパイプの隙間からかすかに漏れる。

それはまるで、彼の言葉そのものが吐き出す“息”のようだった。



玲美が一歩、砂を踏みしめて前に出る。

「ここで作業をされてるんですか?」と声をかけたが、返事はない。


老人――アーネストは、背を向けたまま、手元のバルブを締め上げていた。

やがて、金属の鳴る音の合間に、くぐもった笑い声がこぼれる。


「観光か? こんなとこ見に来る物好きは珍しい。」


その口調は、からかうでもなく、どこか寂しげだった。

パイプの隙間から白い蒸気が立ち上り、彼の背を霞ませる。


涼子が壁際の制御盤に近づき、埃を指でなぞる。

そこには、錆びついたプレートが貼られていた。


「“Earth Engineering Bureau”……地球の設計局?」


彼女が呟くと、老人の手が止まる。

振り返ったアーネストの瞳に、一瞬、懐かしさと痛みが交錯した。


「ああ。昔は俺も“地球人の夢”を設計してた。」


かすれた声が、タンクに反響して低く響く。


「酸素塔の第1期主任――つまり、この星の“空気”を作った人間さ。」


その言葉に、三人は息を呑む。

香菜の胸の奥が、冷たい空気で満たされていく。


玲美が無意識に呟く。


「……じゃあ、あなたが、この星の呼吸を……?」


アーネストは苦笑を浮かべ、レンチを指先で弾いた。


「呼吸、ね。いい言葉だ。今じゃ、吸うたびに課金されるんだがな。」


タンクの圧力計が、低い唸りをあげて回転する。

その音が、どこか人間のため息のように聞こえた。




アーネストは手にしたレンチで、古びたパイプを軽く叩いた。

金属が鈍く響く。その音が、どこか遠くから届く心音のように重く滲む。


「昔はな、“供給”って言葉が誇らしかった。」


パイプの影から漏れる薄い光に、彼の横顔が浮かぶ。

煤と皺に覆われたその表情は、不思議と穏やかだった。


「人が息をできるってだけで、俺たちは英雄扱いだった。

空気を“作る”技術者――希望を運ぶ職業だと思ってた。

……だが今は、“課金”するための装置になっちまった。」


冷たい空気が通路を抜け、古い計器がかすかに震える。

彼の声には怒りも嘆きもなく、ただ、長い年月を経た者だけが持つ諦めの響きがあった。


玲美が思わず一歩、近づく。


「あなたがこの塔を設計したのに……なぜ、こんな場所で?」


アーネストは笑いを含んだ息を吐き、ゆっくりとレンチを置いた。


「仕組みを作った者が、仕組みに潰される。

それが文明ってやつさ。」


静かな声が、金属の壁に淡く反響する。

彼はもう一度、パイプに手を当て、古びたバルブをゆっくりと締めた。


「酸素は空気じゃない。“貨幣”だ。」


その言葉のあと、わずかに沈黙。

そして、低く付け加える。


「息をするにも、金がいるんだよ。」


その瞬間、玲美は息を飲んだ。

彼女の中で、地球から持ち込んだ理想――“努力すれば報われる”という信念が、

錆びた金属音の中で静かに崩れていった。


玲美はノートを開いたまま、しばらく動けなかった。

指先に握られたペンが、かすかに震える。

書こうとするたびに、胸の奥で何かが引っかかる――文字が、呼吸のように詰まる。


視界の隅で、アーネストが黙々と作業を続けている。

酸素タンクのバルブを締めるたび、「カン、カン」と金属の乾いた音。

それがまるで、老いた心臓の鼓動のように規則正しく響く。


玲美の中で、今までの“常識”がひとつずつ崩れていく音がした。


「努力すれば、誰もが報われる。」


それは、地球で教えられてきた言葉。

酸素も、水も、平等にある世界だからこそ成立していた幻想。


「――そう信じていたのは、呼吸が自由な場所にいたから。」


彼女はゆっくりと視線を落とし、ページの上に書きかけの文字を見つめる。

「報われる」という単語の横に、インクの染みがにじんでいた。


「この星では、呼吸さえ“成果主義”なんだ……。」


そのモノローグが、静寂の中に沈んでいく。


香菜は無言でポケットから小さな録音機を取り出し、

アーネストの作業音をそっと記録し始めた。

金属と空気が擦れるその音は、どこか祈りのように響く。


涼子は目を閉じ、耳を傾ける。

彼女の唇が、わずかに動く――

音にはならないが、その呼吸は確かに“リズム”を刻んでいた。


酸素の拍。

火星の心臓が、静かに鳴っていた。


アーネストは最後のボルトを締め終えると、

手のひらで工具の油をぬぐいながら、ゆっくりと空を仰いだ。

火星の薄い空気の向こう、灰白色の空に一本の塔がそびえている。

塔の先端からは、ゆるやかに白い蒸気が立ち上り、

それが風にほどけ、淡い線を描いて消えていった。


「見てみろ。」


老人の声は、乾いた風に溶けていく。


「あの白い蒸気、あれが“金”の流れだ。

けどな、人はその金を吸わなきゃ生きていけねぇ。」


彼の目に映るのは、かつて自らが設計した“希望”の塔。

だが今、それは人々の生を“測る装置”に変わっていた。


塔の弁がゆっくりと開き、

圧縮された酸素が「シューッ」と音を立てて噴き出す。

白い蒸気は陽光を反射し、一瞬、金色に光った。

その輝きは、美しくも、どこか痛ましかった。

まるで文明の呼吸そのものが、錆びついた肺から漏れていくようだった。


三人は何も言えず、ただ立ち尽くしていた。

玲美は手帳を閉じ、香菜は録音機のスイッチを切り、

涼子は塔の影を目で追いながら、小さく息を吐く。


赤茶けた地面に、彼女たちの足音だけが残る。

乾いた砂を踏む音と、遠くで鳴る塔の低い唸りが、

互いに呼応するように響き合う。


それは、火星という星そのものが――

錆びた肺で、かすかに呼吸をしているような音だった。



錆びの粉が指先で崩れ、かすかに光を反射する。

アーネストの手が映る――ひび割れた皮膚、油に染まった爪、

その一挙一動が、まるで老いた心臓の鼓動のように静かに響いていた。


レンチの金属音が、乾いた空気を切る。

「カン……カン……」

そのたびに、画面がわずかに震え、

空調機の低い重低音が、遠くの地中から響いてくる。


三人の顔が切り返しで映る。

玲美の瞳は戸惑いに揺れ、

香菜は録音機を胸に抱いたまま、息を詰める。

涼子はただ無言で、塔の先を見上げていた。


巨大な金属柱が、霞んだ空を貫くように立っている。


弁が開く音――「プシュウウ……」

白い蒸気が吹き上がり、画面いっぱいに広がる。

その蒸気だけが、この無彩の世界で唯一“生きた色”を持っていた。

灰白と錆のあいだで、白い光だけが呼吸をしている。


そして、最後の一滴の音。

老人の荒い息遣いが混ざり、

風の中で、火星の静寂が再び訪れる。



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