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MARS☆IDOL ☆赤い星のシンフォニー☆  作者: 南蛇井


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22/61

街へ出る日

 火星政府広報局での撮影スケジュールの合間。

 玲美たち三人は、ようやく外出許可を得た。

 名目は「火星の市街文化の取材」。けれど本当のところ、誰もそんな立派な目的を信じてはいなかった。

 ――ただ、少しでもこの閉ざされたドームの中から出たかったのだ。


 ゲートを抜けた瞬間、彼女たちの頬を撫でたのは、薄く冷たい風だった。

 人工空調の穏やかな気流とは違う、生きているような不安定さ。

 その風に、三人は思わず深呼吸をする。だが、肺の奥まで空気が届かない。

 胸の内側に、妙な“すかすかした痛み”が広がる。


 香菜が首を傾げ、白い息を吐いた。

「……冷たいのに、なんか足りない感じ」

 涼子は少し考えてから、遠くを見つめたまま答える。

「“空気の密度”がないんだね。音も、響かない。」


 確かに――この世界は、音を拒んでいるようだった。

 灰色がかった白の空はぼんやりと広がり、太陽の輪郭さえも曖昧。

 影は淡く、地平線まで続く砂の色が音を吸い込む。

 風が吹いても、耳に届くのは「擦れる」音だけで、「鳴る」音はない。


 玲美は、無意識に足を止めた。

 “静寂”とは、音がないことじゃない――音が、息を許されていない空間のことだ。

 そんな気がした。


歩道に一歩踏み出すと、赤茶けた砂が靴底にざらりとまとわりついた。

 舗装の隙間に積もった鉄粉が、かすかに光を反射している。

 両脇の建物は、どれも酸化した鉄のような鈍い赤――まるで街全体が錆びて呼吸しているようだった。


 ガラス窓には小さなパネルが取り付けられ、酸素濃度の数値が淡く点滅している。

 〈O₂ 73%〉――その数字は、人々の表情よりも先に目に入る“生命の残量”だった。


 通りを行き交う人々は、全員が携帯酸素マスクを装着していた。

 誰も口を開かず、視線で挨拶を済ませ、わずかな呼吸だけで生きている。

 笑い声も、呼びかけも、音としてこの街には存在しない。

 ただ、マスクのフィルターが“スゥ、スゥ”と息を吐く音だけが、規則正しく並んでいた。


 涼子がその光景を見渡し、ぽつりとつぶやいた。

「……人の声が、少ないね。」

 玲美が応じる。

「音を出すだけでも、酸素を使うから。」

 香菜が小さく息を吐きながら、視線を落とした。

「……息をするだけで、ここでは“コスト”なんだ。」


 その瞬間、三人の声が通りに響いた。

 その響きは、静寂の街にとってあまりにも鮮やかで――

 周囲の通行人たちが、一瞬だけ足を止め、無言のまま彼女たちを見つめる。


 その視線は、冷たくもあり、羨望にも似ていた。

 彼女たちの声が、この星では“贅沢な音”として聴こえていることを、

 三人はようやく悟りはじめていた。





 玲美は歩道脇のベンチに腰を下ろし、胸ポケットから小さな手帳を取り出した。

 銀色の表紙には、地球出発前に自分で刻んだ文字がある――「理想を記録せよ」。

 それを指でなぞり、深呼吸をしてからペンを走らせようとする。


 〈火星社会における文化的交流――〉

 そう書こうとしたところで、ペン先が止まった。

 わずかに震える手。ペンの先端が、酸素の薄い風にあおられて揺れる。


 街の中に“文化”と呼べるものがどれほど残っているのか。

 人々が声を潜め、表情を節約するこの空気の中で――

 玲美は、言葉そのものが「息」を奪う行為に思えてしまった。


 (……言葉も、息も、ここでは消費対象。)


 ふと、隣で香菜が腰のポーチからハンディレコーダーを取り出す。

 ボタンを押すと、小さな赤いランプが灯り、録音が始まる。

 しかし、マイクに入ってくるのは“風”と“遠くの金属音”だけ。

 まるで世界が、音を拒んでいるかのように静まり返っている。


 香菜は録音中の無音を聞きながら、そっと呟いた。

「……“無音”って、こんなにうるさいんだね。」


 その言葉に、玲美は顔を上げた。

 涼子は少し離れた場所で、静かに街の遠景を見つめていた。

 その瞳の奥に映っているのは、灰色の空ではなく――

 地球でのステージ。ライトと観客のざわめき、息づく音の記憶。


 けれど今、そのざわめきはどこにもない。

 代わりに聞こえるのは、火星の風が建物の隙間を抜ける音――

 まるで、この星そのものが、誰かの歌の続きを待っているようだった。



赤茶けた歩道の上を、三人の影が伸びていく。

 酸素マスクのフィルター越しに息が曇り、声は外に漏れない。


 彼女たちの足音だけが、薄い大気に吸い込まれていく。

 ――砂を踏みしめる音。風がドームの継ぎ目を通り抜ける音。

 ――遠くで酸素循環塔が低く唸る音。


 そのすべてが、世界の“呼吸”のように響いていた。

 だがそこに、人間の声だけが欠けている。


 通りを行き交う人々は、皆、携帯酸素ボンベを肩に提げ、無言で歩く。

 すれ違うときも、目線をわずかに交わすだけ。

 まるで“会話”そのものが、この星ではぜいたく品なのだ。


 画面の色は淡いセピアに染まっている。

 空は白く濁り、赤い砂塵がゆっくりと降っている。

 照り返す光の中で、三人の輪郭だけが淡く浮かび上がる。


 玲美の髪が風に揺れ、香菜の手の中のレコーダーがわずかに光る。

 涼子は、前を向いたまま歩き続ける。


 ――言葉のない社会。

 ――声が“酸素”と同じ価値を持つ世界。


 その静寂の中を、三人の姿が小さく遠ざかっていく。

 音のない街に、ただ砂のざらつきだけが残る。


角を曲がった先――

 赤茶けた地平の向こうに、一本の塔がそびえていた。


 錆びた金属の表面を、薄い陽光がなぞる。

 その先端からは白い蒸気がゆっくりと立ち上り、空に溶けていく。

 だがそれは、雲ではなかった。

 人の手によって生み出された、人工の“空気”。


 涼子は立ち止まり、その光景をしばらく見つめる。

 喉の奥で、何かを飲み込むように息を吸い込む――けれど、胸の中がすぐに薄くなる。

 隣で香菜が酸素マスクを調整し、玲美が手帳を閉じる。

 誰も言葉を発しないまま、風が三人の間をすり抜けていく。


涼子

「この星では、風も、息も、人が作るんだ……。」


 その声は小さく、しかし確かに空気を震わせた。

 遠くで塔の弁が開く音が響き、白い蒸気がまた一筋、空へ昇る。

 それはまるで、誰かが呼吸をするたびに、世界が“作り直されている”ようだった。



 広がる赤の地平、霞む白い空。

 そして、その境界に立ち尽くす三人の影。


 ――彼女たちはまだ知らない。

 この星で“息をする”ことが、どれほどの意味を持つのかを。



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