街へ出る日
火星政府広報局での撮影スケジュールの合間。
玲美たち三人は、ようやく外出許可を得た。
名目は「火星の市街文化の取材」。けれど本当のところ、誰もそんな立派な目的を信じてはいなかった。
――ただ、少しでもこの閉ざされたドームの中から出たかったのだ。
ゲートを抜けた瞬間、彼女たちの頬を撫でたのは、薄く冷たい風だった。
人工空調の穏やかな気流とは違う、生きているような不安定さ。
その風に、三人は思わず深呼吸をする。だが、肺の奥まで空気が届かない。
胸の内側に、妙な“すかすかした痛み”が広がる。
香菜が首を傾げ、白い息を吐いた。
「……冷たいのに、なんか足りない感じ」
涼子は少し考えてから、遠くを見つめたまま答える。
「“空気の密度”がないんだね。音も、響かない。」
確かに――この世界は、音を拒んでいるようだった。
灰色がかった白の空はぼんやりと広がり、太陽の輪郭さえも曖昧。
影は淡く、地平線まで続く砂の色が音を吸い込む。
風が吹いても、耳に届くのは「擦れる」音だけで、「鳴る」音はない。
玲美は、無意識に足を止めた。
“静寂”とは、音がないことじゃない――音が、息を許されていない空間のことだ。
そんな気がした。
歩道に一歩踏み出すと、赤茶けた砂が靴底にざらりとまとわりついた。
舗装の隙間に積もった鉄粉が、かすかに光を反射している。
両脇の建物は、どれも酸化した鉄のような鈍い赤――まるで街全体が錆びて呼吸しているようだった。
ガラス窓には小さなパネルが取り付けられ、酸素濃度の数値が淡く点滅している。
〈O₂ 73%〉――その数字は、人々の表情よりも先に目に入る“生命の残量”だった。
通りを行き交う人々は、全員が携帯酸素マスクを装着していた。
誰も口を開かず、視線で挨拶を済ませ、わずかな呼吸だけで生きている。
笑い声も、呼びかけも、音としてこの街には存在しない。
ただ、マスクのフィルターが“スゥ、スゥ”と息を吐く音だけが、規則正しく並んでいた。
涼子がその光景を見渡し、ぽつりとつぶやいた。
「……人の声が、少ないね。」
玲美が応じる。
「音を出すだけでも、酸素を使うから。」
香菜が小さく息を吐きながら、視線を落とした。
「……息をするだけで、ここでは“コスト”なんだ。」
その瞬間、三人の声が通りに響いた。
その響きは、静寂の街にとってあまりにも鮮やかで――
周囲の通行人たちが、一瞬だけ足を止め、無言のまま彼女たちを見つめる。
その視線は、冷たくもあり、羨望にも似ていた。
彼女たちの声が、この星では“贅沢な音”として聴こえていることを、
三人はようやく悟りはじめていた。
玲美は歩道脇のベンチに腰を下ろし、胸ポケットから小さな手帳を取り出した。
銀色の表紙には、地球出発前に自分で刻んだ文字がある――「理想を記録せよ」。
それを指でなぞり、深呼吸をしてからペンを走らせようとする。
〈火星社会における文化的交流――〉
そう書こうとしたところで、ペン先が止まった。
わずかに震える手。ペンの先端が、酸素の薄い風にあおられて揺れる。
街の中に“文化”と呼べるものがどれほど残っているのか。
人々が声を潜め、表情を節約するこの空気の中で――
玲美は、言葉そのものが「息」を奪う行為に思えてしまった。
(……言葉も、息も、ここでは消費対象。)
ふと、隣で香菜が腰のポーチからハンディレコーダーを取り出す。
ボタンを押すと、小さな赤いランプが灯り、録音が始まる。
しかし、マイクに入ってくるのは“風”と“遠くの金属音”だけ。
まるで世界が、音を拒んでいるかのように静まり返っている。
香菜は録音中の無音を聞きながら、そっと呟いた。
「……“無音”って、こんなにうるさいんだね。」
その言葉に、玲美は顔を上げた。
涼子は少し離れた場所で、静かに街の遠景を見つめていた。
その瞳の奥に映っているのは、灰色の空ではなく――
地球でのステージ。ライトと観客のざわめき、息づく音の記憶。
けれど今、そのざわめきはどこにもない。
代わりに聞こえるのは、火星の風が建物の隙間を抜ける音――
まるで、この星そのものが、誰かの歌の続きを待っているようだった。
赤茶けた歩道の上を、三人の影が伸びていく。
酸素マスクのフィルター越しに息が曇り、声は外に漏れない。
彼女たちの足音だけが、薄い大気に吸い込まれていく。
――砂を踏みしめる音。風がドームの継ぎ目を通り抜ける音。
――遠くで酸素循環塔が低く唸る音。
そのすべてが、世界の“呼吸”のように響いていた。
だがそこに、人間の声だけが欠けている。
通りを行き交う人々は、皆、携帯酸素ボンベを肩に提げ、無言で歩く。
すれ違うときも、目線をわずかに交わすだけ。
まるで“会話”そのものが、この星ではぜいたく品なのだ。
画面の色は淡いセピアに染まっている。
空は白く濁り、赤い砂塵がゆっくりと降っている。
照り返す光の中で、三人の輪郭だけが淡く浮かび上がる。
玲美の髪が風に揺れ、香菜の手の中のレコーダーがわずかに光る。
涼子は、前を向いたまま歩き続ける。
――言葉のない社会。
――声が“酸素”と同じ価値を持つ世界。
その静寂の中を、三人の姿が小さく遠ざかっていく。
音のない街に、ただ砂のざらつきだけが残る。
角を曲がった先――
赤茶けた地平の向こうに、一本の塔がそびえていた。
錆びた金属の表面を、薄い陽光がなぞる。
その先端からは白い蒸気がゆっくりと立ち上り、空に溶けていく。
だがそれは、雲ではなかった。
人の手によって生み出された、人工の“空気”。
涼子は立ち止まり、その光景をしばらく見つめる。
喉の奥で、何かを飲み込むように息を吸い込む――けれど、胸の中がすぐに薄くなる。
隣で香菜が酸素マスクを調整し、玲美が手帳を閉じる。
誰も言葉を発しないまま、風が三人の間をすり抜けていく。
涼子
「この星では、風も、息も、人が作るんだ……。」
その声は小さく、しかし確かに空気を震わせた。
遠くで塔の弁が開く音が響き、白い蒸気がまた一筋、空へ昇る。
それはまるで、誰かが呼吸をするたびに、世界が“作り直されている”ようだった。
広がる赤の地平、霞む白い空。
そして、その境界に立ち尽くす三人の影。
――彼女たちはまだ知らない。
この星で“息をする”ことが、どれほどの意味を持つのかを。




