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MARS☆IDOL ☆赤い星のシンフォニー☆  作者: 南蛇井


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終わりの告知

蛍光灯の白が、狭い楽屋を無感情に照らしていた。

ステージの青い光の余韻はもうなく、壁には古びたポスターの端がめくれ、ガムテープの跡が点々と残っている。

鏡台の上には、使いかけのメイク落としと、ぬるくなったペットボトルの水。


涼子は、鏡の前に座っていた。

衣装の胸元に結ばれたリボンをほどく。

シュル、と布の擦れる音が、やけに大きく響く。

静まり返った部屋で、ファスナーを下げる音だけが現実だった。


ノックの音。

「……お疲れ」

神田が顔を出した。いつものように、ネクタイを少し緩め、表情は疲れたまま。

涼子は反射的に頭を下げる。

「ありがとうございます」


数秒の沈黙。

神田は胸ポケットに手を入れ、白い封筒を取り出す。

その動作も、どこか習慣めいていた。


「今日で契約、終わりだ。悪いな」


その声は、まるで誰かの台詞を読むように、感情の温度がなかった。


涼子は顔を上げず、ほんのわずかに頷く。

「……ですよね」


神田は視線を逸らし、続ける。

「次の現場も決まってないし、会社も今、厳しくてな」

「お前の努力は分かってた。けど、数字が出なきゃ……」


その言葉が落ちた瞬間、空気がすうっと冷えていく。

“数字”という単語だけが、刺のように残る。


封筒が机の上に置かれる。

中には、たった三万円。最後の報酬。

涼子は何も言わない。ただ、その封筒を見つめたまま、息を吐いた。


終わる時って、もっとドラマチックなものだと思ってた。

誰かが泣いたり、止めてくれたりするのかと思ってた。

でも現実は――ただの事務連絡。


神田は書類の束をめくりながら、涼子の方を見ようとしない。

「あと、領収書だけ。……ああ、それはいいや。もう」


涼子は軽く会釈し、

「お世話になりました」と、かすれた声で言った。


神田は小さく頷き、出口に向かう。

扉が閉まる瞬間、冷たい蛍光灯の光が彼の背中を照らし、

その影が涼子の膝の上に落ちた。


部屋に残ったのは、

机の上の封筒と、鏡越しの自分の顔だけ。

口紅が少し滲んでいた。


“これで終わり。

……そんな簡単な言葉で、夢は消えるんだ。”


ロッカーの扉を開けると、乾いた金属音が響いた。

ステージ衣装を丁寧に畳みながら、涼子はその布の感触を確かめるように指でなぞる。

スパンコールが擦れて、細かい光を散らす。

それは、もう舞台の光を浴びることのない、哀しい残光だった。


マイクを両手で持ち上げる。

黒いケースの表面には、いくつもの小さな傷が刻まれていた。

ひとつひとつが、ライブの記憶。

照明の熱、観客の歓声、緊張で汗ばんだ手の感触。

どれも確かにそこにあった。


けれど今、そのマイクは何の温度も持っていない。

ただ、冷たく、重い。


“このマイク、いつも重かった。

でも、今日は……ただ冷たい。”


カチリ、とケースを閉じる。

その音が、まるで棺の蓋のように響いた。


涼子は鏡台の前に立つ。

ライトは消され、鏡の中の自分はくすんで見えた。

崩れかけたファンデーション。滲んだアイライン。

無理に口角を上げてみる――笑顔の形にはならなかった。


“笑顔って、筋肉で作れるものだったっけ。”


鏡の端に、くたびれたチラシが貼ってある。

『風海涼子 ワンマンLIVE「Ray of You」』

半年前のデザイン。

当時は、これで世界が変わると思っていた。

文字の隅が黄ばんで、テープが剥がれかけている。


指先でタイトルをなぞり、しばらく見つめた後、

くしゃりと丸めた。


ゴミ箱に落ちる音が、静寂の中でやけに大きく響いた。


“ここに、私がいた証は……もう、どこにも残らない。”


涼子は荷物を肩にかけ、最後にもう一度だけ部屋を見回した。

狭く、無機質な白い部屋。

そこに、誰の気配もなかった。


ライブハウスの扉を押し開けると、夜風が頬をなでた。

ほんの少しだけ生温い――東京の夜は、秋に入りかけても湿っている。


背後で、鉄のドアが重たい音を立てて閉まった。

その瞬間、さっきまで自分がいた世界が、完全に切り離された気がした。


通りには、ネオンが滲んでいる。

ピンク、青、黄色――どれも目に痛いほど鮮やかで、

それがかえって虚ろだった。


観光客がスマホで写真を撮り、

外国語の笑い声が弾ける。

タクシーが短くクラクションを鳴らし、

遠くで音楽が鳴っている。


けれど、それらの音はすべて遠く、

まるで水の底から聞こえてくるようだった。


涼子は歩道をゆっくりと歩く。

コートのポケットに、あの白い封筒を押し込む。

中には三万円。

けれどその重みは、ほとんど感じなかった。


“こんなはずじゃ、なかったのに。”


スクリーンビジョンには、別のアイドルグループの映像。

若い子たちが笑いながら踊っている。

スポットライトの光が眩しくて、

思わず目を細めた。


画面の中の彼女たちは、

夢を信じることが“当然”であるように笑っていた。

その笑顔が、痛かった。


ビルのガラスに目を向ける。

そこには、自分の姿が映っていた。

メイクは落ち、髪は乱れ、目の下にはうっすらとクマ。

そこに立っているのは、

「風海涼子」という名前で夢を見ていた頃の自分ではなかった。


“あの頃の私は、まだ“光の中”にいると思ってた。

でももう、どこにもステージはない。”


信号が青に変わる。

足が自然に横断歩道へと進む。

ネオンの反射が足元の水たまりに揺れ、

白い線の上に、彼女の影が重なる。


車のライトが通り過ぎるたびに、

影は伸びたり、消えたりを繰り返した。


“この街の光は、もう私を照らしてくれない。

だったら、別の空を探すしかない。”


涼子は顔を上げる。

高層ビルの隙間から、

ひとつだけ、小さな星が見えた。


それが、涙でにじんでいるのか、

本当に光が揺らいでいるのか――わからなかった。


人の波が途切れた交差点の角で、涼子は足を止めた。

夜風が頬をかすめ、髪を揺らす。

ビルの谷間――光と喧騒の隙間。

そこに、ほんの少しだけ夜空が覗いていた。


東京の空は、明るすぎる。

ネオンも街灯も、星を追い払ってしまう。

けれど、その闇の奥に――たった一つだけ、

かすかに光る点があった。


涼子はしばらく、それを見上げていた。

まるで、それが彼女にだけ見えているかのように。


“どこか、遠くの星なら……

もう一度、始められる気がする。”


喧騒が背後から押し寄せ、

人々の笑い声と車のエンジン音が彼女を追い越していく。

それでも涼子は動かない。


手の中のマイクケースを、ぎゅっと握りしめた。

その金具が指に食い込み、

小さく――カチリと鳴る。


乾いた金属の音が、夜に溶けていく。


それは、

終わりではなく、

何かがほんの少しだけ動き出した合図のようだった。



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