上層と下層 ― “理想”の断層
ドームの終端に差しかかったとき、足元の床がかすかに振動した。
照明の青白い光が壁をなめ、三人の影を長く引き延ばす。
案内員は立ち止まり、無機質な声で告げた。
「第2ドーム中央連絡通路、終点です。――上層への昇降区画に移ります」
壁面の装置に手をかざすと、金属音が響き、縦に走るラインが青く発光した。
ゆっくりと分かれていく扉の向こうに、透明なガラスのエレベーターが姿を現す。
その透明な箱の中では、かすかな酸素の流れが光のように見えた。
「広報用視察ルートです。上層ドームへ移動します」
案内員の声は、機械が人の言葉を模倣しているかのように平坦だった。
三人が無言で乗り込む。ドアが閉まると同時に、重力が少しだけ足を引く感覚。
エレベーターは滑るように上昇を始めた。
ガラス越しに、火星の赤い街が遠ざかっていく。
錆びた通路、酸素霧にけぶる市場、薄闇に沈む住居群。
そのすべてが、ゆっくりと小さくなっていくのに、胸の奥のざらつきは増していった。
音はなかった。
ただ、耳の奥で酸素の循環音が「シュー……」と続いている。
――まるで、誰かの呼吸だけが、この空間でまだ生きているかのように。
エレベーターは音もなく上昇を続ける。
透明なガラス越しに、火星のもう一つの顔が広がっていった。
霧――いや、酸素の薄い霞が街全体を包み、人々の輪郭をぼかしている。
路地には背丈ほどのタンクを背負った子供たちが行き交い、
吐く息が白い筋となってすぐに消える。
赤茶けた市場の片隅では、手作りの屋台が並び、
果物の代わりに「O₂チケット」が物々交換されていた。
皺だらけの老人が、古びた呼吸マスクを差し出しながら言う。
「これで……一時間、息ができるだろう?」
その声は、酸素よりも重く沈んでいた。
視線を右に移すと、路地裏の壁に明滅する看板が見える。
――《O₂密売所》
赤いネオンが霧に滲み、まるで血のように光っていた。
ガラスに映るその光が、上層の白い照明と交錯する。
赤と白、現実と理想――火星の二つの色が、
ひとつの透明な壁の上で溶け合い、歪んでいく。
高度が上がるにつれ、霧は薄れ、光が青白く変化する。
上層の街並みは滑らかな曲線を描く建築と、
酸素メーターのいらない空気に満たされた“白い都市”。
玲美はそのコントラストを見つめながら、
無意識に手をガラスへ伸ばした。
冷たい表面に、彼女の指先が映る。
その向こうには、もう届かない赤い街。
――理想と現実が、高さで分けられた星。
それが、彼女たちの見た“火星”の真の姿だった。
涼子は、ふと足を止めた。
上昇を続けるガラスの床の下、霞む赤い街の片隅で――
ひとりの少年が、小さな携帯酸素メーターを手にして立っていた。
画面には、青い数字。
“残り酸素:00:37”
少年はそれを見つめながら、唇をきゅっと結び、息を止めた。
そのそばで、母親がしゃがみ込み、やさしく囁く。
> 「もう少し我慢できる?」
その声は励ましでも叱責でもなく、
ただ、日常の一部のように淡々としていた。
涼子の胸が、音を立てて軋む。
息を止めることが、生きる練習。
それが――この星の“呼吸”の仕方なのだと、思い知らされる。
隣で香菜が小さく震える手をガラスに当てた。
> 「……あの子、息をする練習をしてるの?」
案内員は瞬きひとつせず、機械のような声で答える。
> 「酸素税が高騰しています。節約は、生活の一部です。」
その言葉が、金属音のように冷たく響いた。
エレベーターの中の酸素が、急に薄くなったような錯覚。
香菜の指先がわずかに震え、玲美は黙ったまま視線を落とす。
赤い霧の中、少年はまだ息を止めている。
その小さな胸が、かすかに上下して――やがて、ゆっくりと息を吸い込んだ。
涼子は、何も言えなかった。
ただ、自分の呼吸の音がやけに大きく聞こえて、
この透明な壁の向こうにある現実が、
永遠に届かない距離に感じられた。
エレベーターは静かに上昇を続けていた。
足元に広がる赤い街並みが、次第に霞の中へと沈んでいく。
かわりに、上方から青白い光が射し込み、
玲美の頬をゆっくりと染めていった。
その光は、かつて地球で夢見た“理想の社会”の色に似ていた。
だが――ガラス越しに見える赤い下層の影が、
その理想の輪郭を少しずつ侵食していく。
玲美は、思わず口を開いた。
> 「……これが、夢の果てなの?」
自分でも驚くほど、声は掠れていた。
答えは求めていなかった。
ただ、その問いが息のように漏れ出ただけだった。
だが、案内員はすぐに反応した。
無機質な瞳のまま、淡々と。
> 「地球での“理想”を持ち込んだ結果です。
火星は、人の写し鏡です。」
玲美は、ゆっくりと視線を落とした。
自分の瞳の中で、赤と青が交錯している。
上層の澄んだ光と、下層の濁った空気――
二つの色が混ざり合い、どちらでもない“くすんだ紫”を作っていた。
それは、彼女の心の色でもあった。
“完璧な社会”を信じてきた。
努力すれば報われ、正しさが通じる世界を。
けれど火星は――その夢の理論を冷たく突き放す。
理想を掲げた者ほど、苦しく息ができない。
それが、この星の真実だった。
玲美はゆっくりと目を閉じた。
静寂の中、酸素循環の低い音が響く。
まるで、この惑星そのものが、
“ため息”をついているように聞こえた。
エレベーターが静かに減速を始めた。
やがて、軽い衝撃とともに、上層ドームの扉が開く。
――眩しいほどの白。
磨き抜かれた街並みが広がっていた。
整然と並ぶガラス建築、均一な緑化ドーム。
空気は透き通っていて、まるで消毒液のような匂いがした。
清潔すぎて、息を吸うことさえ慎重になってしまう。
玲美が思わず立ち止まる。
香菜が口を開きかけて、けれど言葉を失う。
涼子だけが、静かに一歩、後ろを振り返った。
ガラス越しに見下ろす下層の街。
赤茶けた霧の向こうに、小さな人影が点のように揺れている。
さっき見た少年の姿が、まだ脳裏に焼きついていた。
――あの子は今も、息を止めているのだろうか。
上層の白い光と、下層の赤い霞が、ガラスの表面で交錯する。
その境界線に立ちながら、涼子は心の中で呟いた。
> “夢は、高さじゃなく、空気の濃さで測れるのかもしれない。
でも――ここでも、ちゃんと息をしたい。”
上層の空気は澄みきっていても、温度がなかった。
完璧に整えられた世界の中で、彼女たちは初めて、
“呼吸すること”の意味を考え始めていた。
酸素メーターの微かな音が、静かに脈打つ。
それは、彼女たちがまだ“生きている”という、唯一のリズムだった。




