コロニー内部 ― カオスの街並み
――火星・ミネルヴァコロニー。
そこは、まるで巨大な呼吸装置のような都市だった。
幾重にも重なったドームの層が、赤い空の下に広がっている。
最上層は“白い都市”――透明なガラスと光の街。
富裕層と研究者たちが住み、空気は澄み、重力も穏やかだ。
空気清浄塔の白煙が、ゆるやかに天井の照明へと溶けていく。
だが、一層降りるごとに、その光は濁り始める。
金属と錆の匂いが混ざり、やがて――
赤い霧に包まれた“下層”へと辿り着く。
そこは、かつて地球で言われた「辺境」の再現だった。
旧型の酸素循環システムが、周期的に喘ぐような音を立てる。
「シュー……」「ゴウン……」――
それが人々の呼吸音と重なり、街全体が生き物のように脈打っていた。
壁面のパイプからは酸素霧が漏れ、通路を薄く満たしている。
歩くたび、足元の砂が赤く光り、靴底がかすかに軋む。
人々は皆、顔の半分を補助マスクで覆い、
腰には小さな“酸素メーター”を吊るしていた。
数値を確認する仕草は、挨拶よりも日常的だった。
「ピッ……酸素濃度、72%」
そんな機械音が、街のあちこちで絶えず鳴っている。
そして――警報音。
《注意。第三区画の酸素濃度が低下中。長時間の滞在は推奨されません。》
そのアナウンスに、子供たちが顔を見合わせ、
まるで遊びのように“息を止める”競争を始める。
玲美は、静かにその光景を見上げた。
天井の彼方にあるはずの“白い都市”の光が、
濃い赤霧の向こうで、蜃気楼のように揺らめいていた。
――息をするだけで、格差がある星。
火星の街は、静かにその現実を、
彼女たちの胸に突きつけていた。
通路に足を踏み入れた瞬間、彼女たちは思わず息を呑んだ。
壁面いっぱいに設置された透過モニターが、淡い青の光を放ち――
そこに映し出されるのは、整然とした笑顔と、完璧に設計された理想都市の映像。
「火星政府広報局よりご案内いたします。こちらが第2ドーム中央連絡通路です。」
無機質な女性の声が響く。
その声には抑揚も感情もなく、まるでプログラムが読み上げているだけのようだった。
玲美は、無意識にその声の主を探そうと視線を動かす。
しかし、そこに立っていた案内員の顔は、人工皮膚の下から微かに光を漏らしていた。
人間ではない。――半自動型案内官。
香菜が小さく肩をすくめる。
モニターに映る「地球との共生を――未来へ」の文字が、何度もリピートされる。
笑顔の家族、白い街路、空に浮かぶ透明なドーム。
その“理想の火星”の映像の端で、ふとノイズが走った。
右上に赤い文字。
《信号不安定》
玲美は立ち止まり、眉を寄せる。
画面が一瞬、暗転する。
――そして、次に映ったのは、酸化した外壁と、赤茶けた空の現実映像。
「……これが、いまの火星?」
誰の声でもない、呟きが空気に溶けた。
その時、案内員が再び言った。
「通信の一部に乱れが発生しております。現在、上層ネットワークを再接続中です。」
冷たい声。完璧な敬語。
だがその響きが、三人にとっては――何よりも「温度のない星」の象徴のように感じられた。
香菜は足を止め、通路の壁に貼られた大きなポスターを見上げた。
赤い砂の上に立つ子供たちが笑顔で手を振っている。
その上には、白いフォントで書かれた一文――
《HOPE PLANET ― 希望の惑星へ》
光沢のある紙が、薄暗い照明を反射して微かに揺れる。
けれど、その“希望”の文字の周囲には、酸素濃度を示す計器や警告ランプの明滅が混じり、
どこか皮肉な輝きに見えた。
香菜は小さく息を吸い、マスク越しに呟く。
「“希望の惑星”って書いてあるのに……なんだか、寂しいね。」
彼女の声は、軽い霧のように空気の中で消えていく。
そのすぐ隣で、案内員が機械的に反応した。
「それは上層区画の標語です。下層区画では現在、改訂予定です。」
淡々と、まるで温度を持たない音。
その一言に、香菜の笑みがゆっくりと曇っていく。
「改訂予定……」と彼女は繰り返す。
胸の奥に、小さな冷たさが沈みこんだ。
“希望”さえも階層で分けられる――
その現実が、火星の空気よりもずっと冷たく感じられた。
玲美は、案内員の背後で光る赤い警告灯に目を止めた。
通路の先――半透明の封鎖バリアの向こうには、
うす赤い霧の中を歩く人々の影が揺れている。
子供を背負う母親、酸素タンクを押す老人、
その一人ひとりの動きが、どこか“許可された範囲”の中に閉じ込められているようだった。
玲美は無意識に歩を緩め、ぽつりと呟いた。
「……国境のない星、って聞いたのに。」
その声は、ドームの壁に吸い込まれるようにして消えた。
案内員が即座に振り返る。
その顔には、笑みも驚きも浮かばない。
ただ、あらかじめ用意された“回答”を口にする装置のように――。
「はい、火星には国境は存在しません。」
わずかな間ののち、彼女は同じ無機質な声で続けた。
「ただし、“酸素格差”はあります。」
その瞬間、周囲の酸素循環装置の音が一段と大きく響いたように思えた。
玲美は視線を落とす。
“格差”という言葉が、重力のように胸の奥で沈んでいく。
国境のない世界――
それは、夢を語るときの言葉だった。
現実にあるのは、ただ“息をする権利”の境界線だけ。
玲美は封鎖線の向こうの人影を見つめながら、
言葉にならない思いを、喉の奥で飲み込んだ。
涼子は、案内員の言葉にも、玲美の沈黙にも何も言わなかった。
ただ、ふと視線を上げる。
天井を走る透明な酸素パイプ。
その中を、小さな気泡がひとつ、ゆっくりと流れていく。
無音の世界で、まるでそれだけが“呼吸”のように見えた。
だが、途中で泡は止まった。
しばらく動かず、やがて再び――ほんの少しだけ進む。
涼子の胸の奥が、わずかに締めつけられる。
“息をすることさえ、ここでは許可がいるの……?”
照明の赤が反射して、パイプの中の気泡が血のように見えた。
酸素は、生命を支えるもの。
けれどこの星では、それが“通貨”でもあり、“境界”でもある。
涼子は黙ったまま、その泡が見えなくなるまで見上げていた。
彼女の瞳には、火星の赤が映り込み、
まるでそれが“誰かの苦しい息”を映しているように、揺れていた。
案内員の機械的な声が、再び通路に響いた。
「次の区画へご案内します。」
その言葉は、まるで録音された音声のように温度がなかった。
しかし、三人の足はすぐには動かない。
背後で、酸素ポンプの音が「シュー」と短く鳴った。
次の瞬間、通路の床の隙間から、薄い霧が静かに立ち上る。
赤い照明に照らされたその霧は、まるで“呼吸の残り”のように揺れ、
足元を淡く染めていった。
玲美は立ち尽くしたまま、胸の奥で何かが軋む音を聞いた。
それは金属でも、重力でもない――もっと内側の、理想の軋みだった。
“火星には、国も争いもないって言ってた。
でも、ここには……夢の空気なんて、もう残っていないのかもしれない。”
霧が彼女たちの足元を包み、視界が少しずつ曇っていく。
その赤い靄の中、三人の影だけが、
どこか別の星のもののように、静かに揺れていた。




