到着 ― 火星の“朝”
― 着陸艇内部:無重力から重力へ ―
発着ランプがゆっくりと点滅する。
淡い橙の光が、金属の壁に反射しては消えていった。
シートの背に、身体がわずかに沈む。
人工重力が起動し、無重力の静寂がじわりと終わっていくのが分かる。
「……重力、戻ってきたね。」
香菜が小さく呟いた。
声はヘルメットの中でこもり、息の音と混ざり合う。
シートベルトが一斉に締まる音――カシャン、と規則正しく。
金属の冷たい響きが、まるで心臓の鼓動のように重なった。
次いで、酸素マスクの装着音が機内に続く。
プシィ、と空気の流れる細い音。
機内スピーカーが無機質に告げた。
「気圧調整中。深呼吸を避けてください。」
三人は反射的に頷き、それぞれ視線を交わす。
玲美の額に、わずかに汗がにじんでいた。
香菜は笑おうとしたが、喉が渇いて声にならなかった。
涼子はただ、バイザー越しに二人を見て、ゆっくり息を整える。
無言のまま、三人の呼吸音だけが通信ラインに混ざり合う。
それはまるで、音のない“祈り”のようだった。
外の窓の向こう、赤い砂嵐がゆっくりと渦を巻く。
揺らぐ光の中で、船体の影が浮かんでは滲んでいく。
やがて、機体が静かに傾いた。
重力が完全に戻り、足元の感覚が現実を引き寄せる。
玲美は思わず、拳を握る。
――もう、引き返せない。
火星への降下は、静かに、確実に進んでいった。
無重力の夢から、
重力の現実へ。
その境界線に、誰の声もなかった。
― ハッチオープン:火星の空気 ―
ロック解除音が、船内の静寂を断ち切った。
金属のかすれた音が重なり合い、やがて――
「ガコン」と、重たいハッチが開く。
その瞬間、外気のノイズが“サッ”と流れ込んだ。
乾いた風の音。
遠くで鉄粉がこすれ合う、かすかな擦過音。
灰赤色の霧が、足元からゆらりと立ちのぼる。
香菜が思わず一歩、前へ出た。
火星の空気――いや、“人工酸素の薄膜”をまとった外気が、
スーツ越しに肌を撫でるように流れ抜けていく。
「……これが、火星の風……?」
その声は震えていた。興奮でも恐怖でもない、ただの“未知”の音。
ふわりと、香菜の髪が浮く。
微細な静電気が走り、ヘルメットのガラス越しに青白い閃きが散った。
赤い霧の粒がその光を反射して、まるで小さな星屑のように舞う。
涼子は目を細め、視界を覆う霞の向こうを見つめた。
そこには、夢に描いた“赤い楽園”の姿はなかった。
ただ、息を潜めたような沈黙と、
遠くで響く機械のモーター音だけが存在していた。
玲美はヘルメットの内側で、短く息を吐いた。
赤い霧の中に自分の影が揺らめく――それは、まるで誰かの幻のよう。
「……ようこそ、火星へ。」
誰が言ったのかも分からないほど、
その声は小さく、空気のざらつきに溶けていった。
そして三人は、一歩、赤い地面を踏みしめる。
柔らかく沈む足裏の感覚。
“重力”が再び彼女たちを、この惑星の現実へと引き戻していく。
赤い空。
灰色の風。
そして、息の詰まるような静寂。
火星の“朝”は、祝福ではなく、試練の始まりだった。
― 第一印象の崩壊 ―
“ようこそ”の言葉を待っていた。
けれど、流れてきたのは――警報音だった。
甲高い電子音が、ポート全体に響き渡る。
《酸素濃度 72%。外出時は必ず補助マスクを装着してください。》
無機質なアナウンスが繰り返されるたびに、
夢の入り口だと思っていた空間が、
ただの“警戒区域”のように思えてくる。
玲美はヘルメット越しに眉を寄せた。
「……歓迎の挨拶、じゃないんだね。」
香菜は戸惑いの笑みを浮かべ、
「う、うん……ちょっと、思ってたのと違うかも。」と呟いた。
彼女の言葉に、返答する者はいない。
背後では整備員たちが、顔を上げることもなく、
厚い防塵シャッターを無言で閉め始めていた。
金属が擦れる低い音が、
まるで“外界との縁を断つ”儀式のように響く。
涼子は黙って、その光景を見つめていた。
シャッターの隙間から、火星の空気が一瞬だけ流れ込み、
灰赤の霧が室内に紛れ込む。
その細かな粒が光を受け、静かに漂った。
“夢の赤”ではない――
それは、酸化した鉄の色。
呼吸を奪う、現実の赤だった。
誰も言葉を発さないまま、
シャッターが完全に閉まる。
音が途絶えた空間には、
三人の呼吸と、スーツの気圧調整音だけが残った。
赤い星は、彼女たちを歓迎しなかった。
それでも、ここが“新しい舞台”であることに変わりはない――
ただ、その幕は、静かに、重く降ろされたのだった。
赤い霧の向こうで、ポートの照明が不安定に明滅していた。
その光の中、三人は言葉を失ったまま立ち尽くしている。
玲美が最初に、ヘルメット越しに空を見上げた。
透明ドームのひび割れの向こうに、くすんだ赤い空。
遠くには太陽が、かろうじて“白”に近い光を放っている。
だがその光さえ、どこか冷たかった。
「……ここが、夢の舞台……?」
その呟きは、空気の薄い世界に溶け、誰の耳にも届かない。
玲美の喉が乾く。
火星の“現実”が、彼女の理想をひとつずつ剥ぎ取っていく。
――夢ではなく、ただの生存圏。
香菜が視線を落とす。
足元には、ひび割れた酸素カプセル。
そこから、白い気体が細く立ちのぼっていた。
しゃがみ込み、そっと指先をかざす。
「これ……呼吸の、残り?」
その声には純粋な驚きと、かすかな哀しみが混ざっていた。
香菜にとって“空気”とは、いつも当たり前の存在だった。
今、その“当たり前”が失われていく光景を、
まるで誰かの夢が消えていくように見つめていた。
涼子は、その少し先に目を向けていた。
隔壁の向こうで、移民たちが列を作っている。
白い作業服を着た係員が、ひとりずつ検査を終えるたびに、
小さなタグを背中に貼っていく。
赤いタグ――《低酸素居住指定》。
列の最後尾にいた少年が、タグを貼られた瞬間、
こちらを振り返った。
その目には、警戒でも憎しみでもなく、
ただ、透き通った諦めがあった。
涼子の胸が締めつけられる。
“歌うための空気”が、ここでは“生きるための資源”なのだ。
三人の間に、言葉はなかった。
赤い空の下で、夢も理想も、
静かに現実の重力へと引きずり込まれていく。
――火星の朝。
それは、夢が“目を覚ます”朝ではなく、
現実が“夢を試す”朝だった。
コロニーの放送が、鉄の響きをまとって流れる。
《新規移民区画は第3シャトルへ移動してください。繰り返します――》
その機械的な声は、冷たい空気の粒を震わせただけで、
誰の心にも届かない。
人々は黙々と動く。
酸素タンクを背負い、荷物を抱え、
誰もが“生き延びる”ことだけを目的にしていた。
玲美はその列を見つめたまま、何も言わなかった。
香菜は、壊れたカプセルの破片を拾い上げようとして、
そのまま手を止める。
涼子は二人の背中を見ながら、ただ息をする。
――火星の空気は、冷たく、重い。
足元の砂は薄く赤く、
踏みしめるたびに、かすかな音を立てて崩れる。
ふと後ろを振り返ると、三人の足跡が並んでいた。
砂にまみれた“赤い足跡”が三つ。
それが、彼女たちがこの星で最初に刻んだ痕跡だった。
誰も拍手しない。
誰も“ようこそ”と言わない。
それでも、赤い空の下に残る足跡だけが、
確かに、ここに“生きている”証だった。
涼子は、ひとつ息を吐く。
その吐息さえも、すぐに薄く消えていく。
“ここは理想の星なんかじゃない。
ただ、“息を許された星”――それだけだ。”
放送は途切れ、ポートに静寂が戻る。
わずかに響くのは、遠くで動く整備ロボットの関節音。
そのリズムが、まるで心臓の鼓動のように、
火星の空気の中に微かに溶けていった。
――彼女たちの物語は、
今、夢の外で始まりつつあった。




