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MARS☆IDOL ☆赤い星のシンフォニー☆  作者: 南蛇井


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17/35

到着 ― 火星の“朝”

― 着陸艇内部:無重力から重力へ ―


発着ランプがゆっくりと点滅する。

淡い橙の光が、金属の壁に反射しては消えていった。


シートの背に、身体がわずかに沈む。

人工重力が起動し、無重力の静寂がじわりと終わっていくのが分かる。


「……重力、戻ってきたね。」

香菜が小さく呟いた。

声はヘルメットの中でこもり、息の音と混ざり合う。


シートベルトが一斉に締まる音――カシャン、と規則正しく。

金属の冷たい響きが、まるで心臓の鼓動のように重なった。


次いで、酸素マスクの装着音が機内に続く。

プシィ、と空気の流れる細い音。

機内スピーカーが無機質に告げた。


「気圧調整中。深呼吸を避けてください。」


三人は反射的に頷き、それぞれ視線を交わす。

玲美の額に、わずかに汗がにじんでいた。

香菜は笑おうとしたが、喉が渇いて声にならなかった。

涼子はただ、バイザー越しに二人を見て、ゆっくり息を整える。


無言のまま、三人の呼吸音だけが通信ラインに混ざり合う。

それはまるで、音のない“祈り”のようだった。


外の窓の向こう、赤い砂嵐がゆっくりと渦を巻く。

揺らぐ光の中で、船体の影が浮かんでは滲んでいく。


やがて、機体が静かに傾いた。

重力が完全に戻り、足元の感覚が現実を引き寄せる。


玲美は思わず、拳を握る。

――もう、引き返せない。


火星への降下は、静かに、確実に進んでいった。


無重力の夢から、

重力の現実へ。

その境界線に、誰の声もなかった。



― ハッチオープン:火星の空気 ―


ロック解除音が、船内の静寂を断ち切った。

金属のかすれた音が重なり合い、やがて――

「ガコン」と、重たいハッチが開く。


その瞬間、外気のノイズが“サッ”と流れ込んだ。


乾いた風の音。

遠くで鉄粉がこすれ合う、かすかな擦過音。

灰赤色の霧が、足元からゆらりと立ちのぼる。


香菜が思わず一歩、前へ出た。

火星の空気――いや、“人工酸素の薄膜”をまとった外気が、

スーツ越しに肌を撫でるように流れ抜けていく。


「……これが、火星の風……?」

その声は震えていた。興奮でも恐怖でもない、ただの“未知”の音。


ふわりと、香菜の髪が浮く。

微細な静電気が走り、ヘルメットのガラス越しに青白い閃きが散った。

赤い霧の粒がその光を反射して、まるで小さな星屑のように舞う。


涼子は目を細め、視界を覆う霞の向こうを見つめた。

そこには、夢に描いた“赤い楽園”の姿はなかった。

ただ、息を潜めたような沈黙と、

遠くで響く機械のモーター音だけが存在していた。


玲美はヘルメットの内側で、短く息を吐いた。

赤い霧の中に自分の影が揺らめく――それは、まるで誰かの幻のよう。


「……ようこそ、火星へ。」


誰が言ったのかも分からないほど、

その声は小さく、空気のざらつきに溶けていった。


そして三人は、一歩、赤い地面を踏みしめる。

柔らかく沈む足裏の感覚。

“重力”が再び彼女たちを、この惑星の現実へと引き戻していく。


赤い空。

灰色の風。

そして、息の詰まるような静寂。

火星の“朝”は、祝福ではなく、試練の始まりだった。



― 第一印象の崩壊 ―


“ようこそ”の言葉を待っていた。

けれど、流れてきたのは――警報音だった。


甲高い電子音が、ポート全体に響き渡る。

《酸素濃度 72%。外出時は必ず補助マスクを装着してください。》


無機質なアナウンスが繰り返されるたびに、

夢の入り口だと思っていた空間が、

ただの“警戒区域”のように思えてくる。


玲美はヘルメット越しに眉を寄せた。

「……歓迎の挨拶、じゃないんだね。」


香菜は戸惑いの笑みを浮かべ、

「う、うん……ちょっと、思ってたのと違うかも。」と呟いた。


彼女の言葉に、返答する者はいない。

背後では整備員たちが、顔を上げることもなく、

厚い防塵シャッターを無言で閉め始めていた。


金属が擦れる低い音が、

まるで“外界との縁を断つ”儀式のように響く。


涼子は黙って、その光景を見つめていた。

シャッターの隙間から、火星の空気が一瞬だけ流れ込み、

灰赤の霧が室内に紛れ込む。

その細かな粒が光を受け、静かに漂った。


“夢の赤”ではない――

それは、酸化した鉄の色。

呼吸を奪う、現実の赤だった。


誰も言葉を発さないまま、

シャッターが完全に閉まる。

音が途絶えた空間には、

三人の呼吸と、スーツの気圧調整音だけが残った。


赤い星は、彼女たちを歓迎しなかった。

それでも、ここが“新しい舞台”であることに変わりはない――

ただ、その幕は、静かに、重く降ろされたのだった。



赤い霧の向こうで、ポートの照明が不安定に明滅していた。

その光の中、三人は言葉を失ったまま立ち尽くしている。


玲美が最初に、ヘルメット越しに空を見上げた。

透明ドームのひび割れの向こうに、くすんだ赤い空。

遠くには太陽が、かろうじて“白”に近い光を放っている。

だがその光さえ、どこか冷たかった。


「……ここが、夢の舞台……?」


その呟きは、空気の薄い世界に溶け、誰の耳にも届かない。

玲美の喉が乾く。

火星の“現実”が、彼女の理想をひとつずつ剥ぎ取っていく。


――夢ではなく、ただの生存圏。


香菜が視線を落とす。

足元には、ひび割れた酸素カプセル。

そこから、白い気体が細く立ちのぼっていた。

しゃがみ込み、そっと指先をかざす。


「これ……呼吸の、残り?」


その声には純粋な驚きと、かすかな哀しみが混ざっていた。

香菜にとって“空気”とは、いつも当たり前の存在だった。

今、その“当たり前”が失われていく光景を、

まるで誰かの夢が消えていくように見つめていた。


涼子は、その少し先に目を向けていた。

隔壁の向こうで、移民たちが列を作っている。

白い作業服を着た係員が、ひとりずつ検査を終えるたびに、

小さなタグを背中に貼っていく。


赤いタグ――《低酸素居住指定》。


列の最後尾にいた少年が、タグを貼られた瞬間、

こちらを振り返った。

その目には、警戒でも憎しみでもなく、

ただ、透き通った諦めがあった。


涼子の胸が締めつけられる。

“歌うための空気”が、ここでは“生きるための資源”なのだ。


三人の間に、言葉はなかった。

赤い空の下で、夢も理想も、

静かに現実の重力へと引きずり込まれていく。


――火星の朝。

それは、夢が“目を覚ます”朝ではなく、

現実が“夢を試す”朝だった。


コロニーの放送が、鉄の響きをまとって流れる。

《新規移民区画は第3シャトルへ移動してください。繰り返します――》


その機械的な声は、冷たい空気の粒を震わせただけで、

誰の心にも届かない。


人々は黙々と動く。

酸素タンクを背負い、荷物を抱え、

誰もが“生き延びる”ことだけを目的にしていた。


玲美はその列を見つめたまま、何も言わなかった。

香菜は、壊れたカプセルの破片を拾い上げようとして、

そのまま手を止める。

涼子は二人の背中を見ながら、ただ息をする。

――火星の空気は、冷たく、重い。


足元の砂は薄く赤く、

踏みしめるたびに、かすかな音を立てて崩れる。

ふと後ろを振り返ると、三人の足跡が並んでいた。


砂にまみれた“赤い足跡”が三つ。

それが、彼女たちがこの星で最初に刻んだ痕跡だった。


誰も拍手しない。

誰も“ようこそ”と言わない。


それでも、赤い空の下に残る足跡だけが、

確かに、ここに“生きている”証だった。


涼子は、ひとつ息を吐く。

その吐息さえも、すぐに薄く消えていく。


“ここは理想の星なんかじゃない。

ただ、“息を許された星”――それだけだ。”


放送は途切れ、ポートに静寂が戻る。

わずかに響くのは、遠くで動く整備ロボットの関節音。

そのリズムが、まるで心臓の鼓動のように、

火星の空気の中に微かに溶けていった。


――彼女たちの物語は、

今、夢の外で始まりつつあった。




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