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MARS☆IDOL ☆赤い星のシンフォニー☆  作者: 南蛇井


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16/28

「火星への発進」

管制室からの通信が、無機質な声で艦内に響いた。


「――発進、Tマイナス60秒。」


 その瞬間、静寂が深く沈む。

 《アストレア号》の内部、三人はそれぞれのシートに身体を固定し、緊張で固くなった手を膝の上に置いた。ヘルメット越しに聞こえるのは、わずかな呼吸音だけ。酸素が循環する微かなノイズが、心拍と重なっていく。


 玲美は正面の計器を見つめながら、深く息を吸った。指先が震えていることを、誰にも気づかれないように。

 香菜は唇を噛み、緊張と高揚が混ざったような笑みを浮かべていた。

 涼子は目を閉じ、心の中で静かに数を数えている。音を感じ取るように――まるで、自分の鼓動を確認するように。


 艦内の照明がゆっくりと変化を始める。

 青白かった光が、少しずつ赤へと染まっていく。頬をかすめるその色は、炎のように揺らめき、三人の顔を包み込んだ。


 その赤は、恐怖の色ではなかった。

 ――長い訓練を越えてここにたどり着いた、覚悟の色。

 そして、夢の終わりではなく「再生」の始まりを告げる光。


 「Tマイナス30秒。」


 カウントが進む。

 沈黙の中、彼女たちの胸の奥で、それぞれの過去が静かに脈打っていた。

 もう、後戻りはできない。


 ――重力のない未来へ。

 その扉が、音もなく開こうとしていた。



 コクピット前方のメインモニターに、青く輝く地球が映し出された。

 雲の帯がゆっくりと流れ、青と白の球体が静かに回転している。


 玲美は思わず息を詰めた。

 その美しさは、あまりにも遠く――もう、戻れない場所のように見えた。


「……行くんだね、私たち。」


 自分でも驚くほど、声が小さかった。

 言葉を発した瞬間、胸の奥に、ひとつの声が蘇る。


 ――“完璧じゃないあなたには価値がない。”


 あの冷たい声。

 幼い頃から、どんな成績も、どんな努力も、評価ではなく“比較”として返された。

 完璧でいなければ、存在を許されない。

 そう信じて、ずっと生きてきた。


 だが今、計器パネルの隅に映る“乗員名簿”に、はっきりと自分の名が刻まれている。


 REIMI TAKATSUKA.


 誰かの許可ではなく、自分の選択で刻まれた名前。

 火星行きの第一陣、その一員として。


 玲美はゆっくりと目を閉じた。

 母の声が遠ざかる。かわりに、今の自分の鼓動が聞こえる。


 ――結果だけが、すべてじゃない。

 この場所にいること自体が、私の“証明”なんだ。


 照明の赤が、彼女の頬を静かに染める。

 理性が崩れる音はしなかった。

 ただ、ひとつの重い鎖が、静かにほどけていった。



 横を見ると、香菜がヘルメットを胸に抱きしめていた。

 まるで大切な宝物のように、両腕で包み込むように。


「うん。これが、夢の始まり。」


 彼女はそう言って、ふっと笑った。

 その笑顔は、無重力のように軽やかで――けれど、どこか儚かった。


 香菜にとって“夢”という言葉は、ずっと秘密だった。

 子どものころ、天体観測の帰り道で「火星に行きたい」と言ったとき、

 大人たちは笑った。冗談だと思われた。

 それから、彼女は夢を口にしなくなった。

 壊されるくらいなら、胸の奥にしまっておこう――そう決めた。


 でも、今は違う。

 玲美と涼子が隣にいる。

 その視線の中で、彼女の“夢”はもう、ひとりのものではなかった。


 訓練の夜に語り合った星の話。

 重力に引かれながらも、同じ空を見上げた日々。

 あの時間が、秘密を“共有できるもの”に変えてくれた。


 香菜はヘルメットのバイザーをそっと撫でる。

 透明な曲面に、灯りが赤く反射した。

 ――それは、彼女の胸の奥に生まれた“強さ”の色だった。


 無邪気さと覚悟が、静かに同居していた。

 まるで、夢を壊さないように抱きしめながら、

 その夢で、誰かを守ろうとしているように。



操作パネルの光が、涼子の瞳に静かに映り込んでいた。

 青白いインジケーターが脈打つたびに、過去と現在が交錯する。

 手のひらの震えは、恐怖ではない。

 長い沈黙のあとに訪れる“音”を待つ身体の記憶だった。


 涼子は目を閉じ、息を整える。

 耳の奥で、かすかに鼓動が響く。

 それは――観客の歓声でも、スポットライトのざわめきでもない。

 仲間の呼吸音。

 エンジンの起動音。

 生命維持装置の低い唸り。


 すべてが、伴奏のように重なっていた。


 涼子の唇がわずかに動く。

「――歌おう、どこの星でも。」


 声にはならなかった。

 それでも、その無音の“歌”は、確かにあった。


 かつてステージで喉を壊したあの日、

 音は彼女を裏切ったと思っていた。

 けれど今は違う。

 音は姿を変えて、ここにいる。

 心の奥に、静かに、確かに。


 ――誰にも届かなくてもいい。

 この宇宙に、ただ“響いている”だけでいい。


 涼子は再び目を開けた。

 視界の端で、玲美と香菜のバイザーが赤く光る。

 その赤は、痛みではなく“生”の色だった。


 彼女は操縦席のスイッチに指をかける。

 まるで、曲の最初の一音を鳴らすように。


 今度のステージは――空の向こうだ。



「発進Tマイナス――3、2、1。」


 無機質なカウントの最後の数字が、真空の静寂に吸い込まれていく。

 次の瞬間、《アストレア号》が白い閃光に包まれた。


 轟音はなかった。

 代わりに、船体全体が“深く息をする”ように低く震えた。

 圧力が空気を押し、金属がわずかに軋む。

 まるで巨大な心臓が鼓動を打ち始めたかのようだった。


 涼子の耳の奥に、通信ノイズが微かに混じる。

 そのノイズの向こうで、かすかに――声があった。

 自分の声。

 歌にならない、歌。

 呼吸と同じリズムで、静かに、確かに響いている。


 《アストレア号》はゆっくりとドックを離れる。

 船体を包む粒子光が尾を引き、人工重力の壁を抜けた瞬間、

 音は完全に消えた。


 静寂。

 ただ、それだけが残る。


 モニター越しに見える地球が、少しずつ遠ざかっていく。

 青が淡く薄れて、やがて闇に溶けた。


 その先に――赤があった。


 火星の光。

 濃く、温かく、どこか懐かしい赤。


 玲美は唇を噛みしめ、香菜は無邪気に息をのむ。

 涼子は目を閉じ、その光を心に焼きつけた。


 カメラがゆっくりと外に引いていく。

 無限の闇の中を、小さな光がひとつ――まっすぐ、赤い星へ向かって進んでいく。


 その軌跡はまるで、一つの旋律のようだった。

 音もなく、言葉もなく。

 ただ、夢の続きを奏でるように。



 ――その時、彼女たちはまだ知らなかった。


 赤い星が、夢の終わりではなく――

 新しい現実の始まりであることを。


 《アストレア号》は静かに、ゆっくりと赤い光の中へと消えていく。

 その航跡は、闇の中でひとすじの線となり、やがて夜空の彼方へ溶けていった。


 船体の外殻をかすめる粒子が、微細な音を立てる。

 けれどそれは爆発でも衝撃でもなく、まるで誰かの“息”のように穏やかだった。


 その静寂の奥から――ハミングが流れ始める。

 言葉を持たない、優しい旋律。

 それは、地球への別れであり、火星への祈りだった。


 誰の声かも分からない。

 けれど、その音は確かに生きていた。

 無限の宇宙の闇を、わずかに照らす灯のように。


 青い星は遠ざかり、赤い星がゆっくりと近づく。

 そして、三つの想いが――音のない宇宙に、確かに響いていた。


 夢は、まだ続いている。


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