出発の日
――地球軌道上訓練施設。
その最深部、静寂のドックエリアに、出発を待つ巨大な影があった。
観測窓の向こうに浮かぶのは、火星行き移住船《アストレア号》。
金属光沢の船体には、淡く赤いエンブレムが輝いている。
その側面には、細いフォントで刻まれた搭乗リスト。
RYOKO KAZAMI/REIMI TAKATSUKA/KANA SAEKI
――三人の名も、確かにそこに刻まれていた。
室内は、息を潜めたような無機質な静寂に包まれていた。
整備員たちは声ひとつ上げず、手順通りに機材を確認していく。
ツールの金属音が、無重力下の空間でかすかに反響する。
頭上では、照明が青から赤へとゆっくりと変化していた。
それは、火星の黎明を模した人工の“火星光”。
冷たい金属の床にも、淡い紅が落ちる。
――まるで、この空間そのものが、
彼女たちの旅立ちを“静かに見送る舞台”であるかのようだった。
青い地球が遠ざかるその先に、赤い星が待っている。
《ミネルヴァ・オービット・ベース》は、その間に横たわる“境界線”。
夢と現実の、帰還と出発の――その狭間に、三人の足音が響こうとしていた。
訓練終了式の朝。
ホールは白一色の静謐に包まれていた。
余計な装飾も、拍手もない。
ただ中央に三人――玲美、香菜、涼子が並び、無音の空気の中に立っていた。
前方スクリーンが淡く点灯する。
映し出されたのは、ハリム博士の映像。
彼の声は一定の抑揚で、まるでデータの読み上げのように淡々としていた。
ハリム博士(映像):「あなたたちは、第一陣として火星へ渡航します。
この任務は実験であり、記録であり――夢の延長線上にある現実です。」
言葉の余白に、機械音のような静寂が流れる。
博士はモニター越しに、わずかに視線を動かす。
まるで、画面の向こうから三人を“観測”しているかのように。
ハリム博士:「夢は、観測されるためにある。」
その一言が、冷たい空間に静かに落ちた。
玲美は、ほんの一瞬だけ息を詰める。
――“夢さえも、データにされるの?”
そんな思いが脳裏をかすめる。
けれど、隣でまっすぐ前を見つめる涼子の姿を見て、
玲美の胸の奥に、別の感情が芽生える。
“もし、誰かがそれを記録してくれるなら――
夢は、消えないのかもしれない。”
スクリーンの光が三人の顔を照らす。
その光は、告別の白であり、出発の赤へと変わる前触れでもあった。
出発ドックの空気は、金属と静電気の匂いが混ざっていた。
整備員たちが無言で行き交い、計器の点滅がリズムのように明滅している。
その中心で、三人は出発用スーツに身を包んでいた。
スーツの締め付けが、胸の奥に現実を刻む。
これまでの訓練の汗も、涙も、いまや全てがこの一枚の布地に染み込んでいるようだった。
香菜がヘルメットを抱えながら、観測窓の外を見上げる。
そこには、赤いエンブレムを掲げた《アストレア号》が静かに停泊していた。
巨大な船体に映る照明が、まるで鼓動のように脈を打つ。
香菜:「ねえ、あの船、ほんとに私たちが乗るんだね……。」
その声は、子どものような驚きと、旅立つ人間の震えを同時に含んでいた。
玲美は手袋の裾を整えながら、淡く息を吐く。
玲美:「実感、まだないけど。」
言葉とは裏腹に、指先はわずかに震えていた。
涼子がヘルメットのバイザーを見つめ、ゆっくりと呟く。
涼子:「でも……この“重さ”は、嘘じゃない。」
三人の間に、短い沈黙が落ちる。
誰もが、その“重さ”――命を預ける現実と、夢の続きの狭間――を感じていた。
玲美は目を閉じ、あの日、人工重力区画で香菜が倒れた瞬間を思い出す。
あのとき胸に生まれた“絆の重力”が、今も確かに残っている。
玲美:「……うん。やっと、わかった気がする。
“重力”って、地面に縛られるためじゃない。
立ち上がるためにあるんだね。」
香菜が微笑む。
涼子が静かに頷く。
そして三人は、互いのヘルメットを確かめ合いながら、
《アストレア号》へと続くエアロックの光の中へ歩み出していった。
ゲートのロックが解除され、
低い金属音とともに、ゆっくりとドックの扉が開いた。
眩い光が流れ込み、
三人の視界の奥に――《アストレア号》が現れる。
銀白の船体は、まるで星明かりをそのまま形にしたように滑らかで、
その表面を走る整備灯が、ひとつひとつ“命”のように瞬いていた。
空調の音も、人の声も遠のいていく。
ただ、その船だけが、彼女たちの未来を映していた。
玲美が思わず息を呑む。
香菜は一歩、前へ出る。
そして、船体側面に刻まれた文字を見つけて、目を見開いた。
RYOKO KAZAMI
REIMI TAKATSUKA
KANA SAEKI
三人の名前が、鋼の光の中に並んでいる。
冷たいはずの金属が、なぜか“温かく”見えた。
香菜:「名前が、星になるみたい……。」
その言葉は、空気に溶けてゆくように静かだった。
玲美はその背中を見つめながら、
これまで積み上げてきた汗と涙の意味を、初めて理解した気がした。
そして――涼子は、ゆっくりと目を閉じる。
瞼の裏に浮かぶのは、ステージの光。
観客のざわめき。
もう失ったはずの“拍手の記憶”。
けれど、今の彼女は知っている。
あの拍手は終わりじゃなく、続きの始まりだったのだと。
涼子
“――たとえこの空が、赤くても。
夢は、どんな場所にも、降りていく光になる。”
彼女の唇が、微かに動く。
その瞬間、船体の表面が太陽光を反射し、
三人の姿を“赤い輝き”の中に包み込んだ。
まるで、次の夢が――いま、点火するかのように。
出発カウントが静かに進む中、
三人はドックの中央で、互いの顔を見合わせた。
白銀のスーツに包まれた体。
手のひらの震え。
そして、胸の奥に灯る熱。
――涼子は、ヘルメットを手に取り、ゆっくりと深呼吸した。
涼子
“もう一度、ステージに立つ。
それが、どんな空の下でも。”
ヘルメットがカチリと音を立てて装着される。
透明なバイザーの向こうで、三人の瞳がそれぞれの赤を映した。
玲美の目には、真っ直ぐに燃える“決意”の赤。
迷いを焼き尽くし、前だけを見据える光。
香菜の目には、柔らかく揺らめく“希望”の赤。
誰かを励ますように、やさしく瞬く灯。
そして涼子の目には、静かに息づく“再生”の赤。
かつて失った夢が、今また音を取り戻していく。
遠く、整備ラインの向こうで、ルークが立っていた。
ヘルメット越しでも分かる、無言の笑み。
彼は油で汚れた手袋のまま、ゆっくりと片手を上げる。
ルーク:「行けよ、“三羽星”。……音を、絶やすな。」
三人のバイザーに、その姿が赤く反射した。
まるで、出発の合図のように。
照明が赤から白へと切り替わる。
《アストレア号》のハッチがゆっくりと閉まり、
外の宇宙に向けて、わずかに震える。
重力が消える。
音が遠ざかる。
だが、その瞬間――三つの赤い光だけが、確かに残っていた。
それは、まだ名もない星を照らす、
“夢の残響”だった。
《アストレア号》が、ゆっくりとドックを離れる。
無音の宇宙に放たれるその姿は、まるで一つの呼吸のようだった。
観測窓の向こう、地球の青が遠ざかり、
対になるように、火星の赤がゆっくりと近づいてくる。
二つの星の狭間を――
三つの小さな光が、まっすぐに進んでいく。
静寂。
通信音。
そして、わずかな鼓動のようなエンジンの響き。
やがて、その光は宇宙の闇の中でひとつの軌跡を描く。
淡く、しかし確かに――赤い星を目指して。
“夢は、観測されるためにある。
けれど――その瞬間、夢は“生きた証”になる。”
地球も、火星も、やがて同じ宇宙の一点へと溶けていく。
《アストレア号》の灯が、赤い光の中に吸い込まれ――
――その先に、まだ見ぬ“ステージ”が広がっていた。
三人の物語は、いま、静かに火星へと渡っていく。




