重力下テスト ― 小さな事件
人工重力区画《G-05テストドーム》は、静まり返っていた。
円形の天井に取り付けられた環状ライトがゆっくりと回転し、その光が霧のように漂う空気を薄く照らしている。
床には、金属質の格子模様。そこから微かな振動が伝わってくる――重力発生装置の低い唸りだ。
重力値は0.8G。
低重力訓練を終えたばかりの三人にとって、それは予想以上に“重い現実”だった。
足元が沈み、空気が密になり、呼吸ひとつにも抵抗を感じる。
彼女たちの身体を包むのは、訓練用スーツ。
背部には銀色の酸素供給パックが取り付けられ、微かな機械音を立てて動いている。
ヘルメット越しの呼吸音が、互いの鼓動のように響き合っていた。
遠くの観測室では、クラン博士とルーク、そして映像技師のミラが、モニター越しに彼女たちを見つめている。
赤いランプが点灯する。記録が始まった。
――最終テスト開始。
訓練区画に、重力の“重み”が降りてくる音がした。
足裏に、確かな“地”が戻ってくる。
だがその地は、地球でも火星でもない。
まだ“誰のものでもない場所”――それでも、彼女たちはここで立ち上がろうとしていた。
「――重力発生、カウント開始。」
指導官の声が、無機質なスピーカーから響く。
その瞬間、空気がわずかに震え、床下から低い唸りが伝わってきた。
3…2…1――
世界が、沈んだ。
足元の金属板がわずかにたわみ、三人の身体が一瞬だけ「落ちる」ような感覚に襲われる。
次の瞬間、全身を“何か”が押し戻す。
――重力。
見えない手が、骨の奥まで掴んで離さない。
玲美は反射的に膝を曲げ、即座に体勢を整えた。
息も乱さず、計器を確認し、マニュアル通りの動作を淡々とこなしていく。
表情は変わらない。だがその首筋に、わずかに浮かぶ汗の粒が光っていた。
香菜は軽く笑ってみせる。
「うわ、地面が生きてるみたい!」
そう言いながらも、呼吸が浅く、胸部のスーツが小さく上下している。
重力は、彼女の好奇心さえゆっくり押しつぶそうとしていた。
そして――涼子。
脚が、鉛のように重い。
ステップを踏もうとするたび、膝が遅れてついてくる。
息を吸うと、酸素が胸の奥で絡まり、空気が“音”にならずに消えていく。
かつてステージで踊っていた時は、重力なんて意識したことがなかった。
ライトの熱も、観客の視線も、すべてが“浮かぶ”ような瞬間だった。
だが今は違う。
空気が重く、足元が沈む。
それはまるで、彼女の心の中にまで重力が降りてきたようだった。
涼子
“歌っていた頃は、重力なんて意識しなかった。
でも今は――この空気の重さが、胸の中に沈んでいく。”
彼女はゆっくりと息を吐き、足を前へ出す。
その一歩が、まるで深い水の中を歩くように重く感じられた。
訓練の終盤、整然としていた空間に、かすかな異音が混じった。
――ピッ、ピッ、ピッ。
最初は誰も気に留めなかった。だが、その音が規則的に早くなるにつれ、三人の視線が同時に香菜へと向かう。
スーツの背面パネルが淡い赤を点滅させていた。
モニター表示:O₂ LEVEL – 42%
香菜の声が小さく震える。
「……あれ、ちょっと……苦しいかも……?」
その一言で、空気が張り詰めた。
玲美はすぐに端末を操作しようとしたが、指が震えてキーを打ち損ねる。
「待って、香菜! システムチェックを――」
言葉が、途中で止まった。
自分の声が遠くに聞こえる。
冷静に判断しようとしても、心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響く。
“訓練通り”のはずなのに、身体が動かない。
香菜の呼吸が荒くなり、スーツのガラス面に白い曇りが広がっていく。
視界が揺れ、足元のライトがぼやける。
「……れ、いみちゃん……」
小さく呟いた瞬間、彼女の膝が崩れ落ちた。
金属床に倒れ込む音が、やけに重く響く。
次の瞬間、警報が訓練ドーム全体に鳴り響いた。
――ウウウウウウ……!
赤い警告灯が天井の環状ライトの中で回転し、霧のような空気を血の色に染め上げる。
その中で、玲美はただ立ち尽くしていた。
腕を伸ばそうとしても、指先が震え、空を掴むように宙を切るだけ。
「……香菜……!」
彼女の声が、重力に押しつぶされるように、訓練区画の空気に吸い込まれていった。
――反射的に、涼子は身体を動かしていた。
重い重力の中、脚が床を叩き、滑るように香菜のもとへ駆け寄る。
倒れ込む彼女のスーツの継ぎ目を確認し、素早く手を伸ばした。
「……酸素バルブ、切り替えるよ!」
訓練士の声も、玲美の動揺も、もう耳には入っていなかった。
手の感覚だけを頼りに、涼子は装置をひねる。
プシィ――と空気が抜ける音。
次の瞬間、微かに流れ始める酸素の気泡音。
「大丈夫……ほら、息して。音を、聞いて。
今、ここにある音を――。」
涼子の声は、揺れていた。
けれど、その震えには確かな温度があった。
そして――彼女は、歌った。
言葉にならないほど小さな旋律。
それでも、訓練ドームの空気を確かに揺らす声。
人工重力を支える低周波の唸りが、伴奏のように響き、
酸素の流れるノイズが、かすかなリズムを刻む。
香菜の指先がぴくりと動く。
閉じていた瞼が、ゆっくりと開いた。
涼子の歌に呼吸を合わせるように、胸が上下する。
「……りょうこさん……」
香菜の唇が、わずかに笑みの形をつくる。
「歌って……重力を軽くするんだね……。」
その一言に、涼子の喉が詰まる。
彼女の歌は止まらなかったが、目の奥がにじんだ。
そのすぐそばで、玲美はただ立ち尽くしていた。
目の前で起きた出来事が、訓練や理屈の外にあることを悟る。
自分の胸の奥――そこにも確かに“重力”がある。
努力、完璧、結果。
それらで押し固めた心の底に、
動けなくなるほどの重みが、ずっと沈んでいた。
重力ドームのライトが再び明るさを取り戻す。
涼子の声が空気を震わせながら、静かに消えていった。
訓練が終わると、人工重力区画のライトがゆっくりと落ちていった。
赤い警告ランプが消え、代わりに柔らかな白光が天井から降り注ぐ。
涼子たちは無言のまま、控室へと歩いていく。
重力はまだ0.8Gのまま――それでも、もうあの時のような“重さ”は感じなかった。
香菜が、スーツの襟をゆるめながら笑う。
その笑顔は疲労と安心が混じり合った、どこか子どものようなものだった。
「涼子さんの声、あったかかった……。」
涼子は少し驚いたように目を瞬かせ、それから静かに微笑む。
「歌うしか、できなかったから。」
言葉に照れも後悔もなく、ただ淡い確信があった。
玲美はそのやり取りを黙って見ていたが、やがてぽつりと口を開く。
「……ありがとう。助けてくれて。」
その声はいつものように冷静だったが、わずかに震えていた。
涼子は首を横に振る。
「みんながいたから、歌えたんだと思う。」
玲美は答えず、ただ視線を落とした。
床に映る三人の影が、並んで伸びていた。
その影は、人工重力の光に照らされて、どこか“羽”のような形をしていた。
――ゆっくりと、カメラが引いていく。
薄い霧の中、三人の影だけが残り、
やがて静寂の中に溶けていく。
“重力は、彼女たちを地に縛るものではなく――
同じ地を踏みしめる“絆”の重さでもあった。”
そして、その“絆”こそが、
彼女たちを火星の空へと導いていく最初の翼になる――。




