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MARS☆IDOL ☆赤い星のシンフォニー☆  作者: 南蛇井


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14/24

重力下テスト ― 小さな事件

人工重力区画《G-05テストドーム》は、静まり返っていた。

 円形の天井に取り付けられた環状ライトがゆっくりと回転し、その光が霧のように漂う空気を薄く照らしている。

 床には、金属質の格子模様。そこから微かな振動が伝わってくる――重力発生装置の低い唸りだ。


 重力値は0.8G。

 低重力訓練を終えたばかりの三人にとって、それは予想以上に“重い現実”だった。

 足元が沈み、空気が密になり、呼吸ひとつにも抵抗を感じる。


 彼女たちの身体を包むのは、訓練用スーツ。

 背部には銀色の酸素供給パックが取り付けられ、微かな機械音を立てて動いている。

 ヘルメット越しの呼吸音が、互いの鼓動のように響き合っていた。


 遠くの観測室では、クラン博士とルーク、そして映像技師のミラが、モニター越しに彼女たちを見つめている。

 赤いランプが点灯する。記録が始まった。


 ――最終テスト開始。


 訓練区画に、重力の“重み”が降りてくる音がした。

 足裏に、確かな“地”が戻ってくる。

 だがその地は、地球でも火星でもない。

 まだ“誰のものでもない場所”――それでも、彼女たちはここで立ち上がろうとしていた。



 「――重力発生、カウント開始。」


 指導官の声が、無機質なスピーカーから響く。

 その瞬間、空気がわずかに震え、床下から低い唸りが伝わってきた。


 3…2…1――


 世界が、沈んだ。


 足元の金属板がわずかにたわみ、三人の身体が一瞬だけ「落ちる」ような感覚に襲われる。

 次の瞬間、全身を“何か”が押し戻す。

 ――重力。

 見えない手が、骨の奥まで掴んで離さない。


 玲美は反射的に膝を曲げ、即座に体勢を整えた。

 息も乱さず、計器を確認し、マニュアル通りの動作を淡々とこなしていく。

 表情は変わらない。だがその首筋に、わずかに浮かぶ汗の粒が光っていた。


 香菜は軽く笑ってみせる。

 「うわ、地面が生きてるみたい!」

 そう言いながらも、呼吸が浅く、胸部のスーツが小さく上下している。

 重力は、彼女の好奇心さえゆっくり押しつぶそうとしていた。


 そして――涼子。

 脚が、鉛のように重い。

 ステップを踏もうとするたび、膝が遅れてついてくる。

 息を吸うと、酸素が胸の奥で絡まり、空気が“音”にならずに消えていく。


 かつてステージで踊っていた時は、重力なんて意識したことがなかった。

 ライトの熱も、観客の視線も、すべてが“浮かぶ”ような瞬間だった。


 だが今は違う。

 空気が重く、足元が沈む。

 それはまるで、彼女の心の中にまで重力が降りてきたようだった。


 涼子モノローグ

 “歌っていた頃は、重力なんて意識しなかった。

 でも今は――この空気の重さが、胸の中に沈んでいく。”


 彼女はゆっくりと息を吐き、足を前へ出す。

 その一歩が、まるで深い水の中を歩くように重く感じられた。


訓練の終盤、整然としていた空間に、かすかな異音が混じった。

 ――ピッ、ピッ、ピッ。

 最初は誰も気に留めなかった。だが、その音が規則的に早くなるにつれ、三人の視線が同時に香菜へと向かう。


 スーツの背面パネルが淡い赤を点滅させていた。

 モニター表示:O₂ LEVEL – 42%


 香菜の声が小さく震える。

 「……あれ、ちょっと……苦しいかも……?」


 その一言で、空気が張り詰めた。

 玲美はすぐに端末を操作しようとしたが、指が震えてキーを打ち損ねる。

 「待って、香菜! システムチェックを――」


 言葉が、途中で止まった。

 自分の声が遠くに聞こえる。

 冷静に判断しようとしても、心臓の鼓動が耳の奥でうるさく響く。

 “訓練通り”のはずなのに、身体が動かない。


 香菜の呼吸が荒くなり、スーツのガラス面に白い曇りが広がっていく。

 視界が揺れ、足元のライトがぼやける。


 「……れ、いみちゃん……」


 小さく呟いた瞬間、彼女の膝が崩れ落ちた。

 金属床に倒れ込む音が、やけに重く響く。


 次の瞬間、警報が訓練ドーム全体に鳴り響いた。

 ――ウウウウウウ……!


 赤い警告灯が天井の環状ライトの中で回転し、霧のような空気を血の色に染め上げる。

 その中で、玲美はただ立ち尽くしていた。

 腕を伸ばそうとしても、指先が震え、空を掴むように宙を切るだけ。


 「……香菜……!」


 彼女の声が、重力に押しつぶされるように、訓練区画の空気に吸い込まれていった。


 ――反射的に、涼子は身体を動かしていた。

 重い重力の中、脚が床を叩き、滑るように香菜のもとへ駆け寄る。

 倒れ込む彼女のスーツの継ぎ目を確認し、素早く手を伸ばした。


 「……酸素バルブ、切り替えるよ!」


 訓練士の声も、玲美の動揺も、もう耳には入っていなかった。

 手の感覚だけを頼りに、涼子は装置をひねる。

 プシィ――と空気が抜ける音。

 次の瞬間、微かに流れ始める酸素の気泡音。


 「大丈夫……ほら、息して。音を、聞いて。

  今、ここにある音を――。」


 涼子の声は、揺れていた。

 けれど、その震えには確かな温度があった。


 そして――彼女は、歌った。


 言葉にならないほど小さな旋律。

 それでも、訓練ドームの空気を確かに揺らす声。

 人工重力を支える低周波の唸りが、伴奏のように響き、

 酸素の流れるノイズが、かすかなリズムを刻む。


 香菜の指先がぴくりと動く。

 閉じていた瞼が、ゆっくりと開いた。

 涼子の歌に呼吸を合わせるように、胸が上下する。


 「……りょうこさん……」

 香菜の唇が、わずかに笑みの形をつくる。


 「歌って……重力を軽くするんだね……。」


 その一言に、涼子の喉が詰まる。

 彼女の歌は止まらなかったが、目の奥がにじんだ。


 そのすぐそばで、玲美はただ立ち尽くしていた。

 目の前で起きた出来事が、訓練や理屈の外にあることを悟る。

 自分の胸の奥――そこにも確かに“重力”がある。

 努力、完璧、結果。

 それらで押し固めた心の底に、

 動けなくなるほどの重みが、ずっと沈んでいた。


 重力ドームのライトが再び明るさを取り戻す。

 涼子の声が空気を震わせながら、静かに消えていった。


訓練が終わると、人工重力区画のライトがゆっくりと落ちていった。

 赤い警告ランプが消え、代わりに柔らかな白光が天井から降り注ぐ。

 涼子たちは無言のまま、控室へと歩いていく。

 重力はまだ0.8Gのまま――それでも、もうあの時のような“重さ”は感じなかった。


 香菜が、スーツの襟をゆるめながら笑う。

 その笑顔は疲労と安心が混じり合った、どこか子どものようなものだった。


 「涼子さんの声、あったかかった……。」


 涼子は少し驚いたように目を瞬かせ、それから静かに微笑む。


 「歌うしか、できなかったから。」


 言葉に照れも後悔もなく、ただ淡い確信があった。

 玲美はそのやり取りを黙って見ていたが、やがてぽつりと口を開く。


 「……ありがとう。助けてくれて。」


 その声はいつものように冷静だったが、わずかに震えていた。

 涼子は首を横に振る。


 「みんながいたから、歌えたんだと思う。」


 玲美は答えず、ただ視線を落とした。

 床に映る三人の影が、並んで伸びていた。

 その影は、人工重力の光に照らされて、どこか“羽”のような形をしていた。


 ――ゆっくりと、カメラが引いていく。

 薄い霧の中、三人の影だけが残り、

 やがて静寂の中に溶けていく。


 


 “重力は、彼女たちを地に縛るものではなく――

  同じ地を踏みしめる“絆”の重さでもあった。”


 そして、その“絆”こそが、

 彼女たちを火星の空へと導いていく最初の翼になる――。

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