ドキュメンタリー撮影 ― ミラとの対話
白い照明が、三つの椅子を等間隔に照らしていた。
背後のスクリーンには、ぼんやりと火星の地平線映像が流れている。
空調の音さえ吸い込むような静寂の中、三人は順に椅子に座った。
玲美は背筋を伸ばし、脚をそろえて座る。
香菜は少し落ち着かない様子で手を膝の上に置き、
涼子は息をひとつ整えて、視線を床に落とした。
前方のカメラが、無機質な電子音とともに赤いランプを点す。
その光が、まるで“記録の目”のように彼女たちを射抜いていた。
カメラの後ろに立つ女が一人。
映像技師のミラ=グレン。
彼女は無表情に、しかしどこか穏やかな声で言った。
「――質問はひとつ。“夢とは何か”。」
短い言葉が、真空のような空間に広がっていく。
誰も、すぐには答えられなかった。
目を伏せる玲美。
無意識に手を握る香菜。
呼吸をゆっくり整える涼子。
――訓練施設の中で、これほど静かな瞬間はなかった。
機械の駆動音だけが遠くで響き、
それさえも、やがて無音に溶けていく。
まるで、夢という言葉そのものが、
彼女たちの中でまだ“形を持たない”まま浮かんでいるかのようだった。
玲美が、ゆっくりと息を吸い込んだ。
白い光が彼女の横顔を照らす。影はほとんど存在しない――まるで、弱さを隠す余地を奪うように。
カメラのレンズが、無機質に彼女を見つめていた。
玲美は一瞬だけ視線を逸らしかけたが、すぐに正面を向き直る。
そして、寸分の乱れもない声で答えた。
「夢は結果。途中経過に意味はない。
達成して、初めて夢になる。それまでは、ただの努力。」
その声音には震えひとつなかった。
言葉の粒が、静かな部屋の空気を切り裂く。
ミラは何も言わず、ただ淡く頷いた。
無音の中、背後のモニターがゆっくりと切り替わる。
そこには、今の玲美の映像が無音で再生されていた。
同じ表情が、何度も繰り返される。
完璧に整った口元。まっすぐな姿勢。揺らぎのない視線。
――けれど、何かが欠けていた。
モニターの中の玲美は、まるで“仮面”のように見えた。
その背後で、誰の声でもない囁きが蘇る。
「また満点じゃないの? あなたは“失敗”が似合う子ね。」
かすかな記憶の残響が、胸の奥で疼く。
母の声。
それはもう何年も聞いていないはずなのに、
いまだに彼女の言葉の芯を支配している。
玲美は、ほんの一瞬だけまぶたを伏せた。
――“完璧でなければ、愛されない”。
それが彼女の“夢”を、結果以外の何ものにも許さなかった。
再び顔を上げたとき、
カメラの赤いランプが、まるで“審判”のように瞬いていた。
香菜は、椅子の端にそっと腰を下ろした。
両手を膝の上で握りしめたまま、視線を泳がせる。
背後のライトが、彼女の髪の先を柔らかく照らし、
まるで宇宙の光塵がそこに溶けているようだった。
ミラが、無言で録画スイッチを押す。
赤いランプが点く瞬間、香菜の肩がわずかに跳ねた。
彼女は小さく笑って、息を吸い込む。
「夢は……誰にも見せちゃいけない秘密、かな。
言っちゃうと、逃げちゃいそうで。」
その言葉は、囁きのように静かで、
でも確かに“守るような強さ”を持っていた。
ミラが、問いを重ねる。
「どうして逃げると思うの?」
香菜は少し考え、天井を見上げた。
白い照明の向こうに、かすかに星の光が滲む。
「だって、“口にした夢”って、叶わなくなる気がするんです。
心の中で、大事にしまっておくほうが、強くなれる気がして。」
その瞬間、カメラのレンズが小さく軋む音を立てた。
香菜の瞳が、わずかに揺れる。
そこには、明るい笑顔の奥に隠された“誰にも触れさせない影”があった。
ミラは沈黙したまま、カメラを止める。
録画ランプの赤が消えた瞬間、香菜の肩がほっと緩む。
――彼女の“秘密”は、孤独の形をしていた。
誰にも理解されないことへの恐れ。
夢を語れば、壊されてしまうかもしれない。
だから、心の奥にそっとしまい込む。
笑顔は、鍵。
無邪気さは、鎧。
けれど、ミラの目には確かに映っていた。
その奥に、言葉にできないほど真っ直ぐな“夢の光”が。
涼子は、静かに椅子へと腰を下ろした。
背筋を伸ばすでもなく、崩すでもなく――ただ、自然にそこに座っていた。
ミラが録画スイッチを押す音が響く。
赤いランプが灯り、空間の空気がわずかに張りつめる。
涼子はしばらく黙ったまま、カメラを見つめていた。
その瞳の奥には、どこか遠い舞台の光がまだ残っているようだった。
唇が小さく動く。けれど言葉にはならない。
そして、ようやく――彼女は息を吸った。
「……夢は、たぶん、“まだ終わってない記憶”。」
その声はかすかに震えていた。
だが、その震えの中に、確かな温度があった。
「昔の自分が、やり残したこと。
だから、続けなきゃいけないんです。どんな場所でも。」
カメラの向こうで、ミラが息を呑むのがわかった。
涼子の瞳が少しだけ潤んで、しかし微笑む。
その笑みは、敗北でも後悔でもなく――再生の予感だった。
背景のスクリーンに映る“赤い星”が、
まるで彼女の言葉に呼応するように、わずかに光を強める。
静かな光が、涼子の頬を淡く照らす。
ミラは記録を止めずに、低く呟いた。
「……今の、いいね。」
その瞬間、涼子の中で何かが静かに動いた。
もう終わったと思っていた夢が、
再び“始まりの音”を立てる。
――夢は、終わっていなかった。
それは、記憶の中で眠り続けていた歌。
そして今、火星へ向かう光の中で、
もう一度、その続きを探そうとしている。
カメラの赤いランプが、静かに消えた。
録画停止の電子音が、金属質の空気に溶けていく。
ミラは無言のまま、ゆっくりと息を吐いた。
長い収録の緊張を解くように、軽く首を回し、ヘッドセットを外す。
冷たい機械音が止まり、ようやく“人の時間”が戻ってくる。
三人はそれぞれの椅子に座ったまま、言葉を失っていた。
玲美は目線を落とし、香菜は指先をいじり、涼子はただ前を見ていた。
その沈黙を破ったのは、ミラの柔らかな声だった。
「……いいね。」
短いその言葉に、三人が顔を上げる。
ミラはカメラ越しではなく、まっすぐ彼女たちを見つめていた。
「赤い星に似合う言葉だ。」
その声には、記録者の冷静さではなく、
同じ“夢を信じる人間”の温度があった。
誰もすぐには返事をしなかった。
けれど、その言葉が胸の奥に静かに染みていく。
玲美の瞳の硬さが、少しだけ緩む。
香菜は小さく息を吐き、唇に笑みを浮かべる。
涼子は、遠くを見つめるようにして呟いた。
「……赤い星、か。」
窓の外、軌道の彼方に滲む火星が、
まるでその言葉に応えるように、微かに瞬いた。
――それは、まだ誰も知らない“新しい夢の舞台”の予告だった。
機械に囲まれたこの施設の中で、
確かに“人の心”が動いた瞬間だった。
照明が、ひとつ、またひとつと落ちていく。
撮影ルームに残るのは、モニターの光だけ。
青白い残光が壁を染め、静寂が満ちる。
モニターには、三つの映像が並んでいた。
音はない。
けれど、そこには確かに“鼓動”があった。
――玲美。
背筋を伸ばし、真っすぐにカメラを見据える瞳。
その奥にあるのは、完璧であろうとする強さと、
誰にも見せない孤独の影。
――香菜。
緊張と笑顔の狭間で浮かぶ、柔らかな微笑み。
無重力の光が頬を照らし、
それがまるで“夢の中の少女”のように見えた。
――涼子。
ゆらめく瞳が、どこか遠くを見ている。
あの日、ステージの光を失った彼女が、
今はもう一度、その光を取り戻そうとしている。
映像が重なり、やがてゆっくりとフェードアウト。
その上に、静かな声が重なる。
――ミラのナレーション。
「記録というのは、過去を残すためのものじゃない。
――未来が“振り返るため”に、存在するのよ。」
その声が消えた瞬間、画面にはひとつの映像が残る。
赤く滲む、遠い星――火星。
無音の中で、その光だけが確かに瞬いていた。
まるで、未来が彼女たちを見つめ返しているように。




