出会い ― 火星生まれの技師ルーク
整備区画――「M-Deck」。
銀色の配線が床を這い、壁面には工具が整然と並ぶ。
空調の低い唸りが響き、油の焦げたような匂いが空間を満たしていた。
通信訓練用スピーカーの故障により、三人はここへ呼び出されていた。
白い整備灯がまぶしく、機材の影が歪む。
香菜が目を輝かせながら、興味津々にスピーカーのパネルを覗き込む。
「わぁ……中、意外と複雑なんだね。これ、全部音を出すための部品?」
玲美は腕を組み、ため息をついた。
「また訓練が遅れるわね。整備スケジュール、ずれるじゃない。」
その声には苛立ちよりも、秩序を崩されることへの不安が滲んでいた。
涼子は何も言わず、ただ故障したスピーカーの前に立っていた。
金属の外装に映る自分の顔は、どこかぼやけて見える。
音が失われた機械を前にすると、胸の奥が妙にざらついた。
そのとき――背後から低い声が響いた。
「触るな。感電したら、今度は俺の仕事が増える。」
三人が振り返る。
そこには、作業服の袖をまくり上げた青年が立っていた。
赤みがかった短髪に、少し煤けた整備服。
目の奥にわずかな眠気と、乾いた光。
整備士――ルーク=アードライト。
その名を呼ぶ前に、彼の声がもう一度響いた。
「見学なら勝手にしろ。でも、機械は生き物みたいなもんだ。
素人が触ると、すぐ拗ねる。」
香菜がきょとんと首を傾げる。
「拗ねる……? 機械が?」
「そうだ。音が出なくなる。まるで、言いたいことがあるみたいにな。」
玲美が呆れたように眉を上げる。
「あなた、詩人なの? 整備士でしょ。」
ルークは鼻で笑い、スピーカーの蓋を開けた。
中から焦げたような電子の匂いが立ち上る。
その匂いを嗅いだ瞬間、涼子の心がざわついた。
――かつて、舞台袖で壊れたモニターの前に立っていた夜を思い出す。
あのときも、音が消えて、世界が無音になった。
彼女は無意識に一歩、装置へと近づいていた。
整備区画の光が、金属の床に反射して冷たく揺れていた。
ルーク=アードライトは、スピーカーの配線に視線を落としたまま、
工具を指で軽く回し、作業の合間に三人を一瞥する。
赤みのある短髪、頬に薄く伸びた無精ひげ。
火星の低重力で育った体は、わずかに頼りなげに見える。
だが、指先の動きだけは異様に正確だった。
「お前ら、例の“ミッション・アイドル候補”か。」
低く、乾いた声。
ルークは半ば冗談のように言いながら、焦げたコイルを取り外す。
「……重力に負けんなよ。」
香菜がきょとんとした表情で首を傾げた。
「重力って、そんなに重いんですか?」
ルークは短く息を吐いて笑った。
「……火星のよりはな。こっちは、夢も引っ張られて落ちていく。」
その言葉に、玲美が眉をひそめる。
「じゃあ、あなたはどうやって立ってるんですか?」
ルークは工具を止めずに、わずかに肩をすくめた。
「慣れないだけさ。俺たち火星生まれは――“地球”の方が息苦しいんだ。」
その瞬間、涼子の呼吸が止まった。
“息苦しい”という響きが、胸の奥にひっかかる。
――ここでの生活も、同じだ。
酸素は足りているはずなのに、胸が締めつけられる。
夢を追うほど、空気が薄くなる。
ルークはふと顔を上げ、彼女の視線に気づいた。
一瞬だけ、火星の砂を思わせるような赤茶の瞳が交わる。
「……ま、機械でも人でも同じさ。
動かそうと思うなら、ちゃんと呼吸してやらないとな。」
そう言って彼は、壊れたスピーカーの中に指を滑り込ませた。
火花が弾け、青白い光が一瞬だけ三人の顔を照らす。
静かな音の中で、涼子は知らず息を呑んでいた。
整備区画に漂うのは、金属とオゾンの匂い。
ルークは作業台に広げたスピーカーの基盤を覗き込み、
指先で焦げたパーツを軽くつまむ。
「……くそ、在庫がないな。」
短く舌打ちして、彼は工具を放り出した。
「手、貸してくれ。」
その声に、涼子が小さく息を呑む。
隣で見守っていた玲美と香菜が視線を交わしたが、
涼子は迷わず前に出た。
「……配線、これ逆にしてみてもいい?」
ルークが顔を上げる。
「……あんた、機械わかるのか?」
「ステージで、何度も壊したから。慣れてる。」
一瞬、ルークの唇がわずかに緩む。
その笑みは、皮肉でも嘲りでもなかった。
――まるで「よくわかるよ」と言っているような、柔らかな光。
二人の手が並び、焦げた配線を慎重に組み替えていく。
工具の金属音と、呼吸のリズムだけが部屋に響く。
香菜は息を詰め、玲美は腕を組んで見守っていた。
最後の端子を接続。
ルークがスイッチを入れると、
ノイズの向こうで――かすかな電子音が震えた。
「鳴った!」香菜が声を上げる。
「ほら、ちゃんと生きてる!」
涼子の瞳に、微かな光が戻った。
その音の揺らぎが、胸の奥の深い場所まで届く。
(モノローグ)
“音がある。
それだけで、世界が少しだけ優しくなる。”
ルークは工具を片づけながら、ぼそりと呟いた。
「機械は壊れる。でも、音は消えない。
誰かが、また鳴らせばいいだけだ。」
その言葉を、涼子は心の中で静かに反芻する。
――壊れても、終わりじゃない。
まだ、鳴らせる。まだ、歌える。
遠くで、再起動した通信端末のライトが灯った。
それは、まるで新しいリズムが生まれる合図のように――。
作業が終わると、整備区画に静けさが戻った。
ルークは手に残った油を布でぬぐい、
ふと視線を上げて、厚い防爆ガラス越しの宇宙を見つめた。
外には、かすかに赤く滲む光。
火星。
黒い虚空の中で、ほんの小さな“ふるさと”が呼吸していた。
「……俺が生まれたのは、あの星の地下区画さ。」
ルークの声は、独り言のように低く響く。
「空はないけど、地平線だけは夢に出る。
あの暗闇の中で、どこかへ続く線を信じるんだ。」
香菜が目を丸くして笑った。
「うわ、なんかロマンチック!
“地平線の夢”って、詩みたいじゃないですか。」
玲美は腕を組み、窓に映る自分の影を見つめる。
「地平線のない夢、ね……。不思議。」
その声には、ほんの少しだけ羨望が混じっていた。
涼子は、何も言わずに火星を見つめた。
遠く、赤い光。
そこに、自分の“終わったと思っていた未来”の色を見た気がした。
やがて、かすかな声で呟く。
「……見てみたいな、その景色。」
その声は微かに震えていた。
けれど、その奥には確かに――
“再び夢を見る力”が、静かに芽吹いていた。
ルークがちらりと涼子を見て、口の端をわずかに上げる。
窓の向こうで、火星が一瞬だけ光を返した。
まるで、その言葉に応えるように。
三人が整備区画を後にする。
香菜はスキップするような足取りで、
玲美は腕を組み、無言のまま二人の後ろを歩く。
そして涼子は、最後に一度だけ振り返った。
整備台の上には、まだ温もりを残すスピーカー。
彼女は小さく息を吐き、
その“音の箱”に、目に見えない何かを置いていったようだった。
自動扉が閉まり、
区画の中に再び静寂が戻る。
ルークはしばらく、扉の向こうを見つめていた。
無骨な手が自然と動き、修理したばかりのスピーカーの表面をなぞる。
指先が止まり、軽くスイッチを押す。
――淡いノイズ。
それに続いて、どこからともなく“歌のようなハミング音”が流れ出した。
低い振動が空気を震わせ、
金属の壁がわずかに共鳴する。
その音は、先ほどまでこの部屋にいた少女の残響のようだった。
ルークは小さく笑い、
そのままスピーカーに背を向けて窓辺に立つ。
「……火星でも、音は届くさ。」
呟いた声が、無重力の空気に溶けていく。
カメラはゆっくりと外へ引き――
無数の星の中で、ひときわ赤く光る一点を映す。
赤い星、火星。
そこに、彼らの“新しい風”が生まれようとしていた。




