赤い訓練の日々
銀色の壁がゆっくりと回転している。
大型回転モジュール〈G-03〉――その内部は、人工重力をほぼ感じさせない無の世界だった。
呼吸の音、スーツの摩擦音、そして通信チャンネルから流れる電子的なノイズ。
すべてが、静寂の底で脈打つように響いている。
訓練士の声が冷たく空間を満たした。
「各自、体軸制御開始。角速度データ、送信を。」
三人はそれぞれ、浮遊する姿勢で体幹を整える。
慣性を殺し、わずかな指先の力で姿勢を維持する――それが“宇宙で立つ”ということだった。
最初に動いたのは香菜だった。
勢いよく腕を動かした瞬間、反作用で身体がくるくると宙を回転し始める。
「うわっ! やばっ、止まらな――いてっ!」
軽く天井に頭をぶつけ、そのまま笑う。
「はは……これ、地上の体育より難しいかも!」
訓練士の返答は、温度を欠いた機械音のようだった。
「遊びではありません、佐伯訓練生。」
笑いは一瞬で凍りつく。
香菜は口を閉じ、唇を噛んだ。
玲美は横目でその様子を見ながら、静かに姿勢制御スラスターを調整する。
まるで一切の感情を排除したように、完璧な手順で。
タブレットに次々と合格値が記録されていく。
彼女は“優等生”の面を崩さない――それが、彼女なりの防衛だった。
だが、もう一人。
涼子は、身体がわずかに硬直していた。
昔のステージで感じた「スポットライトの圧力」に似た、無重力の閉塞感。
筋肉が反応する前に体がずれて、壁面に肩をぶつける。
「……っ!」
スーツの外殻が軋む音。
データが乱れた瞬間、通信の向こうで訓練士が呟いた。
「年齢的限界かもしれませんね、風海さん。」
その一言で、空気が音もなく沈む。
香菜が何か言いかけて、結局言葉を飲み込む。
玲美は視線を逸らし、ただ黙って手元のパネルを操作する。
涼子は、無重力の中でわずかに目を閉じた。
耳の奥で、自分の心臓の音だけがはっきりと響いていた。
(モノローグ)
“まただ。努力しても、笑われる。
夢を追えば、年齢のせいにされる。
でも――まだ、終わらせたくない。”
彼女は再び、体軸を整える。
指先がパネルに触れ、ゆっくりと姿勢を戻していく。
その瞳には、わずかに青い地球の反射光が宿っていた。
――訓練は続く。
夢を笑う声の中で、彼女たちは“空の歩き方”を覚えていく。
閉鎖区画〈D-02〉。
壁も床も、息を詰めたように無機質な白。
空調の低い唸りと、どこか遠くで響く振動音だけが、時間の経過を知らせていた。
酸素濃度は地上の七割。
空気は薄く、呼吸をするたびに肺が金属のように軋む。
三人はそれぞれのシートに固定され、前方の端末に映る心理テストの問いに答え続けていた。
眠気と頭痛、そして沈黙。
会話は、原則禁止――それがこの試験のルールだった。
玲美はタブレットを操作しながら、規則的に指を動かす。
画面上のグラフがゆるやかに波打ち、次の設問が表示される。
その手つきには確かに緊張が宿っていたが、同時に“自分を保つための秩序”でもあった。
彼女にとって、記録を取ることは呼吸と同じだった。
一方、香菜は問題に飽きたのか、ふと上を見上げる。
天井の小窓から、冷たい光が差し込んでいた。
視界の奥――闇の中でひとつだけ、赤く瞬く星。
「……あの星が、火星かな。」
小さく呟く声が、密閉空間に溶けていく。
「行ったら、どんな匂いなんだろうね。」
玲美は画面から目を離さずに答える。
「現実見なよ。夢見てる場合じゃない。」
その言葉には、いつもの冷静さがあった。
だが、香菜は見逃さなかった。
玲美の指先――わずかに、震えている。
香菜は、薄く笑った。
それは皮肉でも、からかいでもない。
ただ、息苦しさの中に見つけた人間らしい瞬間への微笑み。
「玲美ちゃんだって……ちょっと夢見てるでしょ。」
玲美は一瞬だけ息を呑む。
そのまま何も言わず、タブレットの画面に視線を戻した。
肩の動きが、わずかに乱れている。
外では、酸素濃度を示すモニターが静かに点滅を続けていた。
数字が下がるたび、呼吸は浅く、心音は強くなる。
――この静寂の中で、三人の心はそれぞれの“限界”を越えようとしていた。
夢を見ることが禁じられた場所で、なおも夢を思い出そうとする。
その矛盾こそが、“人間”であることの証のように。
暗室型シミュレーションルーム。
外界の音は完全に遮断され、空気さえ止まったような静寂。
三つの個室に、三人はそれぞれ一人ずつ隔離されていた。
顔面を覆うVRディスプレイが微かに光を放ち、脳波と心拍をモニタリングする。
――これが「心理適応試験」。
被験者の潜在意識に触れ、最も深層に眠る“恐怖”を映し出すプログラム。
【玲美の映像】
視界に現れたのは、見慣れた自室。
机の上には、整然と並べられた参考書と答案用紙。
照明は白く、空気は乾いている。
紙の上に書かれた数字――「89点」。
その瞬間、背後から冷たい声が響いた。
「また満点じゃないの?」
母の声。
氷のような静寂の中で、その一言だけが刺さる。
「あなたは、“失敗”が似合う子ね。」
玲美の唇がわずかに動く。
「……違う、私は……」
言葉が喉で凍る。
声は出ない。
母の背中が闇に溶け、世界から光がひとつ消える。
胸の奥で、心臓が一度だけ強く打った。
それは恐怖ではなく――“認められたい”という痛みの音だった。
【香菜の映像】
景色が切り替わる。
そこは、薄暗い教室。
窓の外は灰色の空。
誰もいないはずの空間に、笑い声だけが反響していた。
「……?」
香菜が首を巡らせる。
教室の机が並ぶ中、ひとつだけ――自分の席だけが空いている。
机の上の花瓶が傾き、透明な水が静かにこぼれた。
床に広がる水面が、まるで涙のように光る。
「ねえ……誰か、いる……?」
返事はない。
笑い声が止まり、代わりに静寂が押し寄せた。
光が消え、香菜の瞳に映るのは、自分の影だけ。
唇がわずかに震える。
孤独――それが、彼女の恐怖の形。
【涼子の映像】
そして、最後の部屋。
視界が闇から浮かび上がる。
そこは、誰もいない舞台。
スポットライトが一つだけ灯り、灰色の床に円を描いている。
中央に立つ涼子。
手にはマイク。
だが、客席には――誰もいない。
椅子の列が果てしなく続き、そのすべてが空席。
静寂が、耳鳴りのように圧し掛かる。
彼女は息を吸い、声を出そうとする。
――音が出ない。
喉が閉じる。
声帯が震えない。
ライトの熱だけが、肌を焼く。
「……歌が、届かない……」
呟いた言葉が、虚空に消える。
誰もいない客席。
届くはずのない拍手の幻。
やがてライトがふっと消え、世界は完全な闇に包まれた。
(モノローグ)
“夢はいつだって、孤独の形をしている。”
“誰かに届くことを願いながら――
その光の中で、一人きりで立ち尽くす。”
外のモニターには、三人の脳波が淡く波打っていた。
その揺れは、恐怖でも絶望でもない。
――まだ消えていない、“夢”の残響。
長い試験が終わったあと、
三人は言葉を交わさず、ただ静かに廊下を歩いていた。
壁に埋め込まれたライトが、一定のリズムで点滅する。
無重力のせいで、足音はほとんど響かない。
ただ、微かな呼吸音と、金属の擦れる音だけが続いていた。
通路の先、強化ガラス越しに広がる宇宙。
そこには、青く霞む地球と――その向こうに、ひときわ赤く滲む小さな星。
香菜がふと立ち止まり、窓の外を見上げた。
髪がふわりと浮き、光を受けてゆらめく。
「……火星って、こんなに遠くて、近いんだね。」
その声は、ほとんど囁きだった。
けれど、玲美も涼子も、その言葉に息を呑んだ。
玲美は目を閉じた。
厳しさで塗り固めた仮面の裏に、わずかな震えが走る。
涼子は何も言わず、唇を噛みしめる。
胸の奥に、重く静かな決意が沈んでいくのを感じながら。
光がゆっくりと差し込む。
地球の夜明け――けれど、ここには“朝”も“夜”もない。
ただ、永遠に回り続ける光と影の輪。
無重力の中で、三人の影がゆるやかに重なる。
互いに触れもしないまま、けれど確かに寄り添うように。
その瞬間、外の窓に映る赤い星が、わずかに瞬いた。
まるで彼女たちの誓いを、静かに見届けるように。
――彼女たちはまだ知らない。
この“赤い訓練の日々”が、
後に〈火星の三羽星〉と呼ばれる伝説の始まりになることを。




