宇宙訓練の始まり
――重力が、少しだけ軽い。
輸送艇の扉が開いた瞬間、耳の奥で音が吸い込まれるように消えていった。
涼子は最初の一歩を、慎重に踏み出した。
足元の床は金属のようでいて、微かに弾力がある。
ブーツの裏に、人工重力の“疑似的な地面”の感触が伝わるたび、どこか現実感のない違和感が広がった。
彼女の視線の先、窓の外には――青い地球。
まるで舞台照明のように、淡く輝きながら回転している。
さっきまで自分たちがいた世界が、もう小さな球体に過ぎない。
背後で、玲美が短く息をついた。
「……重力、少ない。気を抜いたら転ぶわよ」
その声には、いつもの自信と、ほんの僅かな震えが混ざっていた。
香菜がふわりと浮かび上がるように一歩前に出て、ガラス越しの光景に顔を近づけた。
「すごい……空が、止まってる」
その呟きは、静寂に溶けていった。
涼子は視線を戻し、足元に映る地球の反射を見つめる。
その青い輝きが、ゆっくりと遠ざかっていく。
――もう、帰れない距離。
その事実が、胸の奥にじわりと広がった。
「……ここが、宇宙……」
思わず漏れた自分の声が、妙に透明に響いた。
誰も答えない。三人とも、同じ感情を抱えているのだと、彼女は悟った。
遠ざかる地球の映像が、モニターに切り替わる。
通信が途切れ、電波のノイズが短く鳴る。
音のない世界に、わずかにモーターの唸りだけが残る。
青と銀の光が交錯する廊下の中で――
三人の影だけが、確かに“人間”の形をしていた。
訓練ブリーフィングルーム。
白い光が、容赦なく肌を照らしていた。
光源がどこにあるのかもわからない――影のない空間。
人間であるはずの三人の輪郭さえ、データの投影のように見える。
部屋の正面には、十数名の教官たちが無言で並んでいた。
誰も目を合わせようとせず、端末に視線を落とし、淡々と指を動かす。
タッチパネルの反応音が、小さな雨粒のように規則的に響く。
その冷たさに、涼子の背筋がじわりと硬くなった。
中央に立つ男――クラン博士。
灰色の髪を後ろで束ね、無表情のまま資料端末を閉じる。
その動作ひとつで、空気が静止した。
「あなたたちは“ミネルヴァ・クルー”として選抜されました。」
低く抑えた声。抑揚がなく、まるで録音データを再生しているかのようだ。
「これより、火星適応プログラムを開始します。
心拍数・筋電反応・心理パターンはすべてモニタリングされます。
――感情の制御も訓練の一環です。」
その一言に、涼子の胸がざらついた。
“感情の制御”。
歌うことも、笑うことも、涙を流すことさえも――数値になるのか。
まるで、ここでは“心”すら許されないような気がした。
隣で、玲美は唇を引き結んだ。
反論の言葉が喉まで出かけたが、すぐに飲み込む。
――規律。それが、彼女の防衛本能だった。
香菜はといえば、きょろきょろと周囲を見回していた。
教官たちの無表情を、まるで別の生き物を見るような目で見つめている。
その無邪気な視線が、この冷たい空間で唯一“人間らしい”ものだった。
クラン博士は、感情の欠片も見せずに続ける。
「質問は、ありませんね。」
答えを待たず、背を向けた。
その瞬間、彼女たちが“訓練生”でなく、“被験体”として扱われる時間が始まった。
白い光が再び強まる。
――影は、完全に消えていた。
居住モジュール。
白い壁と、最低限の家具。
人の生活というより、“生存のための構造物”だった。
空調の微かな唸りと、生命維持装置の規則的な振動音――
それが、この宇宙での“夜の音”だった。
涼子の部屋。
鏡に映る自分の顔は、わずかに浮腫み、目の下に影ができていた。
人工照明の下で、肌の色は現実よりも少し青白く見える。
指先で頬をなぞると、冷たい。
――地球の風も、温度も、もうここにはない。
“本当に、もう戻れないんだ。”
その実感が、胸の奥でゆっくりと重く沈む。
歌のレッスン室でも、舞台袖でも感じたことのない、沈黙の圧。
息を吐いても、音が響かない。
宇宙は、静寂すら吸い込む場所だった。
玲美の部屋。
ベッドに腰を下ろし、ノート端末を開く。
整然と並ぶスケジュール表、訓練項目、カロリー計算。
ペン先の動きだけが、彼女の不安をかき消すように走る。
「規律。ペース。完璧。」
書き込みながら、呟くように繰り返す。
手を止めれば、心が揺れる気がした。
だから――止めない。
規則こそが、玲美にとっての“重力”だった。
香菜の部屋。
壁際の小さな観測窓。
そこには、深い黒の中に浮かぶ“青い球体”があった。
ゆっくりと回る地球の雲の流れ。
どんなスクリーンよりも鮮やかで、どんな夢よりも遠い。
「地球って……やっぱり、きれいだね。」
その言葉は、彼女自身も気づかぬまま、小さく通信マイクに拾われた。
音声ログとして、自動保存。
――この小さな呟きが、やがて“記録”として残ることを、誰も知らない。
無数の光点が、闇の中に散らばっている。
それは都市の灯でも、星でもない――人間が作った光の群れ。
そして、その中心に、たったひとつだけ青い星。
ゆっくりと遠ざかる。
誰かの記憶のように。
――“夜”が、完全に宇宙へ溶けていった。
訓練施設――
その言葉に、涼子はなぜか懐かしさを覚えた。
響きの中に、かつての舞台の空気が微かに残っている気がしたのだ。
けれど、ここには拍手も観客もいない。
ライトも音楽も、誰かの視線も存在しない。
あるのは、心拍数のログ、筋電の波形、脳波のグラフ。
感情の起伏でさえ、測定値として保存されていく。
“夢のために来たはずなのに、
夢を見る時間さえ、削られていく。”
無重力の廊下を進むたび、足元から現実が離れていく。
ステージの床の代わりに、無音の空間。
拍手の代わりに、モニターの点滅。
人間の温度を失った夢の断片が、
今、データとして生かされている。
――それでも、彼女は立ち止まらなかった。
なぜなら“夢”とは、誰かに見せるものではなく、
自分が生きるための“重力”だったからだ。




