7人の観客
地下へと続く階段は、湿ったコンクリートの匂いがした。
ステージのあるフロアに降りると、空気がわずかに重い。
小さなライブハウス――キャパ十人。壁には過去のフライヤーが貼られ、スモークとビールが混ざったようなにおいが漂っていた。
客席では、誰かがドリンクを片手にスマホをいじっている。
会話も笑い声もない。
聞こえるのは、アンプのハム音とグラスが触れ合う小さな音だけ。
涼子はステージ袖で立ち止まった。
マイクを握る右手が、わずかに震えている。
ライトの隙間から見える客席――たった七人。
それでも、今日はこの空間が世界のすべてだった。
「行けるか?」
背後から、マネージャーの神田の低い声。
感情のないその響きが、逆に胸を締めつけた。
「……はい」
声が少しだけ掠れた。
深呼吸をひとつ。喉の奥に残った埃のような不安を飲み込む。
彼女は一歩、光の方へ足を踏み出す。
狭いステージ。青いライトがゆっくりと彼女を照らす。
まるで深い海の底に沈んでいくような感覚だった。
“たった七人。でも、今夜で終わりなら、ちゃんと歌わなきゃ。”
手の震えを押さえ込み、マイクを唇に寄せる。
静寂の中、わずかな電子音が鳴り始めた。
最後のステージが、音もなく幕を開けた。
イントロが流れた。
打ち込みのビートに、細いギターの音が重なる。
誰も動かない。息をする音さえ、ここではノイズになる。
涼子はマイクを持ち直し、最初のフレーズを口にした。
――声は出ている。音程も、リズムも、練習通り。
けれど、胸の奥から出てくるはずの何かが、どこかに置き忘れられている。
(あれ……音が、遠い。)
自分の声が、まるで誰か別の人の歌のように感じた。
1番のサビに入る。照明がふっと明るくなる。
青白い光が頬を照らし、汗の粒が一瞬だけきらめいた。
――その光の向こうで、観客の誰も笑っていない。
最前列の男性が腕を組み、無表情にスマホの画面を眺めている。
その青白い光が、涼子の顔よりもまぶしかった。
“ステージって、もっと温かい場所だった気がする。
光が、ちゃんと届いてたはずなのに。”
指先が冷たい。
心のどこかで、もう終わりを予感している自分がいた。
2番に入る。メロディが少し高くなる。
客席の一人があくびをした。
小さく、けれどはっきりと見えた口の動き。
“見ないで、集中。今日だけは、最後まで。”
言い聞かせるように、視線を前へ戻す。
だが、ライトの奥には何も見えなかった。
誰の目にも映らないまま、声だけが空気を震わせている。
2番が終わる。
照明が赤から青にゆっくりと変わる。
その色の変化が、まるで彼女の心の温度を映しているようだった。
声が掠れた。
たった一瞬、喉が乾いたせいかもしれない。
でも、そのかすかなノイズが、この夜のすべてを象徴しているように思えた。
ラストサビ。
――「届かない空でも、歌うよ――」
“よ”の音が震えた。
喉ではなく、心が揺れたのだと、彼女は分かっていた。
音が途切れ、静寂。
ドラムのリバーブが残響し、ステージに淡い青光が滲む。
観客の手が動かないまま、数秒の空白が流れた。
最後のコードが、空気の中にほどけていった。
ギターのリバーブが細く揺れ、やがて――途切れる。
涼子は胸の前で両手を重ね、静かに息を吐いた。
アンプのノイズが、遠くの風のように鳴っている。
客席は沈黙していた。
一秒、二秒。
やっと、ぱち、ぱち、と手を叩く音が響く。
――三人だけ。
拍手のリズムはばらばらで、すぐに途切れた。
まるで義務のような音。
それでも、涼子は微笑もうとした。
マイクを持つ手をゆっくり下ろす。
口角を上げるのに、筋肉が重い。
「……ありがとう。風海涼子でした」
声は穏やかに出た。
震えていない。ただ、何も乗っていなかった。
マイクスタンドに手を置く。
指先に伝わる金属の冷たさが、現実を教えてくれる。
軽く頭を下げたその瞬間、照明がふっと落ちた。
青い光が消え、ステージは闇に沈む。
無音。
ただアンプのノイズだけが、幽かな命のように残る。
――昔は、光に包まれてると思ってた。
――でも今は、この照明さえまぶしすぎる。
涼子は目を閉じた。
まぶたの裏に、数年前の自分が立っていた。
笑って、手を振って、未来を信じていたあの頃の自分が。
その幻が、静かに消えていく。
ステージを降りた瞬間、空気の温度が変わった。
涼子の耳に、ドアの向こうから人の声が微かに届く。
「……あの子、前も来てたよね」
「まだやってたんだ」
笑い声ではない。ただの会話。
それがいちばん痛かった。
涼子は何も言わず、マイクをスタッフに手渡す。
指先に汗が残っているのが、妙に気になった。
ステージライトの余韻が肌にまだ焼きついている。
楽屋前では、マネージャーの神田が腕時計を見ていた。
ステージの結果を確認するように、冷静な顔。
「……お疲れ」
短く、それだけ。
彼の声には、慰めも苛立ちもなかった。
涼子は小さくうなずく。
「……ありがとうございました」
神田は手元のタブレットを操作しながら、視線を上げないまま言う。
「あとで少し話そうか」
はい、と答える声が、やけに遠く聞こえた。
涼子は楽屋に向かう前に、一度だけステージを振り返った。
照明はすでに落とされ、闇の中に機材だけがぼんやりと浮かんでいる。
音も光も、すべてが消えたあとの世界。
(これが、私の“ラストステージ”なのかもしれない)
心の中でそう呟いた瞬間、背後の非常灯が消えた。
闇が、すべてを包み込んだ。
そこにはもう、拍手も、光も、夢もなかった。




