一話
今日は上履きが隠されていないようだ。そんなあたりまえであるはずのことに、つい口で笑ってしまった。本来鼻で笑うべき場面であろうに。日差しが弱いこの時間帯の学校は満員電車ほどの二酸化炭素が存在せず、まだ呼吸も滞らなかった。職員室の扉は、私よりも幾分か背が高かった。3回弾いてノックしたら、空っぽの箱を叩いて音を共振させたかのような感触がした。職員室は白かった。ムダに広い田舎の駐車場によくある、名も無き誰かの吐き捨てたチューイングガムや野鳥の排泄物で白線を塗りつぶされているような元・白でもなかった。担任の先生と定型文のやり取りを交わして鍵を受け取る。学年が上がるごとに階段の段数も増えていく。手すりは使われることを知らない。踊る人のいた試しのない踊り場の何もない所でコケる。ポケットに手を突っ込んでいるわけではなかったため、着地点を見つける。指紋とか体液とか、私が「生きている」と証明できるものは残すものの、手に付着した埃は跡形もなく払い捨てる。目に見えないゴミが付着した手にふーっと息を吹きかける。
「エスカレーターを税金で賄ってほしいな」
私はただ長い廊下を踊り狂うように、スキップして教室に足を運ぶ。今日も誰ともすれ違うことはなかった。時計が止まったまま微動だにしない、そう思わされるほど、静かな時間だ。秒針は小鳥のさえずりと肩を並べて一つの曲となっているだけだった。鍵を開く音は不協和音だった。初々しい香りの漂う早朝だから、電気をつける必要はなかった。ポケットから一角だけ使われた消しゴムを取り出すも、私の机に落書きは施されていなかった。ない方がいいのは決まっているが、芸術作品なら許してあげたのにな。
「おっはようございまーす」
朝からサッカーに明け暮れる男子集団の戯言と彼らの足音で、小鳥やカラスは飛び立っていった。その艦隊の中央に常に屯しているのは、月と言う名のプレイボーイだ。網に封印したサッカーボールを肩からぶら下げている月。私の名前は女の子なのに太陽だから、私と取り替えてほしいな。性格的にも解釈が合わないから。彼らはランドセルを机に放置するなり、グラウンドへと駆け出していった。そのうち教室が賑やかな声で飽和するも、遥か遠くの波打ち際でアマチュアが鳴らしたギターが聴こえてくるような感覚に陥った。足音から、秒針が次の数字に向かうまでに来ることは知っていた。担任が入ってくるなり、水面に一石を投じて波紋が広がっていくようなイメージが頭に浮かんできた。シマウマの群れがライオンを察知し、一目散に逃げ去るのがダブった。すぐさま挨拶を返して静まり返り、一斉に席に戻る。どこか滑稽だった。瞬きする間に朝礼が終わり、1時間目のテスト返しの時に、自慢話にしたいのか美談にしたいのか知らないが、猫騙し気味の声で私に声をかけた。
「太陽ちゃんはいつも100点ですごいねー」
私はまんざらではない笑顔を殺した。担任の先生に社交辞令的な褒め言葉をもらって、以前は素直に喜べていた。でも今は違う。何故笑顔を殺したのか。それは毅然として存在する漠然とした負の感情がみぞおち辺りに突き刺さって抜けないからである。「生きている」という気分になれず、ずっと死んでいるかのような錯覚、なんとなく背景としてしか存在できていないような錯覚に陥っているからである。
自傷のきっかけは些細なことだった。昼休み、私もその場にいて、「入れて」 と簡単な台詞を耳に届けるだけでよかったのに、それすら許されず、クラスの女子達が私を置いて遊びに行った。私は彼女らに手を伸ばすも届かなかった。彼女らは私に気付かなかったのかもしれない。いや、違う。そうじゃない。ほぼ毎回同じじゃないか。たぶん、気付いた上で無視したのだろう。そう思った瞬間、不純物が混ざった半液体状の鉛が口から入り込み、舌周りにこびりついて、喉を焼き焦がし、食道を塞ぎ、肺の奥にまで溶け込んだような息苦しさが私の息を詰まらせた。心臓あたりが痛かった。その鉛は行き場のない怒り、下ろす場所を見失った拳だった。無気力に身を任せ、体重を机に押し付けて、ふて寝しようとしたときだった。
視界の端で、筆箱に突き刺さったカッターナイフが鈍く光った。それは多少濁ってこそいるものの、私の笑みを写した。口角が上がっていた。図工の授業で紙を切り刻むのに使った、100円ショップにも売られているありふれた道具。その鈍い光が、私の暗闇の中で、唯一の希望の光のように見えた。吸い寄せられるようにそれを手に取り、左腕にそっと押し当てる。ひんやりとした感触。震える腕に微小な力を加えた。力とは言えないほどの力だった。
白い肌の上に華奢で今にも消えてしまいそうな赤い線が浮かび上がる。さっきの図画工作で二つに分けた色紙が思い浮かんだ。最初は裁縫の糸のように頼りなかったが、ゆっくりと、真珠の粒のような血が滲み出してくるのを無心で見つめた。斑になったつぶつぶの血溜まりから、ポタポタ滴り落ちる血の粒を眺めた。白い肌がジワジワと赤く侵食されていった。その時、私のくすんだ世界に、初めて鮮やかな色が差し込んだような気がした。か細い声が漏れた。少し喘いだ。胸の奥に詰まっていた鉛が、どこかへ引いていった。みぞおちから正体不明の感情が剥がれ落ちていく音がした。確かに心臓が脈打っている。焼け焦がされるようなこの痛みが私に、「生きている」と思わせた。それは、私にとって未曾有の麻薬的快感だった。痛みが引いた後には、なぜか脳の奥が痺れるような、仄暗い快感が残った。口に僅かに残った血が甘く感じた。少し頬が赤くなって、息が上がっていた。私から流れたそれを右手の人差し指でそっと掬った。傷口に触れてジワジワヒリヒリするけども、それも楽しかった。私は人差し指を子供みたいに舐めた。本で読んだ通り、鉄の味がした。それは罪の味で禁忌の味だった。背徳感とはこのことだろうか。無意識に右手が目元に触れたら、涙が溢れていたことに気付いた。人差し指の上で涙と血が混ざって、色が薄まった。実際、血も涙も成分的には近いため、希釈したことにはならないが、ドス黒い赤が鮮やかな濃いピンク、いやマゼンタに変わった。それが嬉し涙か悲し涙か私には判別できなかった。
無視してばかりのくせに、目は鋭いらしい。昼休み後の体育の時間、不意に長袖がめくれ上がり、クラスの女子に腕の傷を見られた。彼女達の顔が、見る見るうちに血の気が引いて青ざめていくのが見て取れた。「やばいよ、あの子」「太陽って、腕に傷があるらしい」それから、私を見つめる彼女たちの視線は、どこか怯えを含んだものに変わった。同じ人間を見る目ではなく、世界の終わりを眺めているようだった。それまで当たり感触のない話をしていた子たちも、私と目を合わせなくなり、私から少しずつ物理的にも精神的にも距離を取り始めた。元々隔絶されてはいたが、「あいつは変だ」「危ないやつだ」「話しかけちゃいけない」といった本音が湿った青臭い空気を通して、肌で感じ取れた。だが、ごく一部からは心配の声が聴こえた気がする。妄想も混じってるだろうが、それを感じ取った私は鳩が豆鉄砲を打たれた顔になった。開いた口が塞がらなかった。
左腕を隠す素振りもなく何食わぬ顔で家に帰ったら、母親が腕の傷に気づいた。傷ついた。「太陽、これはどうしたの!」悲鳴に近い叫び声だった。何事だ、と父親も加勢し、リビングで立たされたまま、夫婦で私を問い詰めてきた。ヒステリーを引き起こした母親に肩を掴まれ、激しく揺さぶられた。さっきの傷口からの出血のせいで貧血になったのも影響してるかもしれないが、目眩と動悸が襲ってきた。カバンの中を勝手に漁られて、切先に血が固まってできた赤褐色の錆のようものがこびりついたカッターナイフが取り上げられてしまった。だが、その叱責の裏に、私は確かな「心配」の色を感じ取った。彼らが私を心配するたび、私の心臓は高鳴り、異常なほど充足感で満たされた。ああ、私は「生きている」。私が自分を傷つけることで、彼らは私に意識を向ける。「生きている」という感覚は、傷の痛みによる中毒的快感や血の味の苦さをはるかに凌駕するものだった。死んでるように生きていた私にとってそれは、私が彼らの心を動かせた証拠だと、傲慢にも思い始めていた。親の焦り、先生の困惑、友人の怯え。それら全てが、私という存在を彼らの心に刻みつける、唯一の手段だったのだ。私は、この「心配」という感情をコントロールできる力を手に入れた。
笑みが隠せなかったがために長引いた説教に終止符が打たれても私は紅潮していた。誰もいない部屋で、またしても新しい線を腕に増やした。今度はハサミだった。一本、また一本と切り刻んでいった。左腕一面が赤く染まった。心の重荷が少しずつ軽くなって、私自身に翼が生えたかのような錯覚に囚われた。それは、心の奥底に沈んだ難破船を、少しずつ削り取っていくような行為だった。最初は震える手で恐る恐るだった行為が、いつしか、私にとって不可欠なものとなっていった。私の脳は、血が流れるたびに分泌される微かな快感物質と、心配なり畏敬なりを向ける他人を思い浮かべる狂酔に囚われ、自傷行為なしでは今日を終えられない身体に生まれ変わっていった。やはり麻薬的だ。依存性が高い。自嘲的で破滅的な喉を引きつらせた笑いを秘匿した。




