トイレの菊池さん
ったく、どいつもこいつも俺に押し付けやがって……
心の中で毒づきながら、『学』の色塗りを終える。下書きの線から大分はみ出してはいるが、とりあえず色が着いてりゃ上出来だろう。
大体こんなのは美術部の仕事なんだよ。展示作品の製作で忙しいからって、看板や装飾まで実行委員がやらなきゃいけないなんて。
おまけに他の委員は、塾だのバイトだので、気まぐれにしか顔を出さない。二~三人いればいい方で、十人全員が揃ったことなんて、最初の集まり以外一回もないし。今日なんて俺一人だぜ。
俺もサボりたいけど……実行委員長になってしまった手前、そうはいかない。
クジにもじゃんけんにも、とことん弱い自分を恨みながら、『園』の色塗りを終えた。
『祭』を終えたら今日は帰ろうと、一画目に取り掛かった時、急に腸が水っぽい音を立てながら、怪しい動きをし始めた。
まずい……
すぐに頭に浮かんだのは、昼に食べたネギトロ巻きだ。教室は冷房が効いているとはいえ、十月のまだそれなりに暑い空の下を、保冷剤もなしに持ち歩いたから……味はおかしくなかったけど。
元々腹が弱いのに、なんであんな物買ったんだろう。……ああ、夕べ寝る前に観た回転寿司の大食いライブと、コンビニの半額シールのせいだ。
そんなことを考えている間にも、腸の動きはどんどん活発になる。冷たい手で雑巾絞りされているような痛みに襲われ、腹からキュウッと甲高い悲鳴が上がる。
ヤバい……本格的にヤバい……
震える手で、なんとか『祭』の『又』の所まで塗り終えると、片付けもそこそこに、リュックを掴んで教室を飛び出す。
学園祭が終わるまで、作業場として借りている美術部の用具室。四階端のここから一番近いのは、もちろん目の前にあるトイレだが、これは女子トイレだ。男子トイレは反対側の端にある。
くそ……何で俺は男なんだ。
果てしなく感じる長い廊下。歩く度に増す痛みに、額からつうっと脂汗が垂れる。
やっと辿り着いた四階端の男子トイレ。オアシスに飛び込もうとした俺は、中を見て愕然とする。
嘘だろ……
四つある個室のドアが、全部閉まっている。見間違いかと鍵の部分に目を凝らすも、どのドアも全て、閉まっていることを示す赤になっていた。
待つ余裕はもちろん、ドアを叩いて中の奴を急かす余裕もない。このまま横の階段を降りて、三階の男子トイレに行った方が早いと、すぐに行動に移す。
一段一段、足を下ろす時の嫌な振動に耐え、なんとか真下の三階男子トイレへ辿り着く。……が、さっきと全く同じ光景に絶望する。
嘘だろ……絶対嘘だって。
みんな何食ったんだよ。
……ん?
人の気配も物音もしないことに、ふと違和感を覚える。壊れているだけなんじゃないかと、手前の個室のドアを押したり引いたりしてみるも、びくともしない。それでもやっぱり叩く気力はなく、精神を統一しながら二階の男子トイレへと急いだ。
頼む……今度こそ……!
期待と嫌な予感がせめぎ合う。脂汗で滲む視界には、閉ざされたドアと残酷な赤が並んでいた。
あり得ねえ……あり得ねえってこんなの!
その時俺は、この学校に伝わるある噂を思い出した。
『トイレの菊池さん』
今からもう何十年も前のこと。この学校に、とてつもなく腹の弱い『菊池』という男子生徒がいた。
ある日の放課後、いつものようにトイレへ向かう菊池をからかう為、他の生徒が先回りし全ての個室に鍵をかけてしまった。用を足すことの出来なかった菊池は、限界を迎えてそのまま…………
彼の怨念は、未だにこの学校に留まっているという。
放課後、一人で残る『菊池』の腹を呪い、トイレへ誘導するも、個室には全て鍵が掛かっている。
限界を迎えるまで、永遠に学校を彷徨わせるというのだ。
そう……俺の名字も…………
背筋と腹がゾッとする。
冗談じゃない……俺は何としても用を足してやる!
ふらつく足で一階の男子トイレへ向かうも、案の定閉まっているドア。横目でそれを確認するなり、俺はすぐさま反対側の女子トイレへ向かう。
最初からこうすりゃよかったんだ。学校にはもう、俺しか残っていないんだから。
堂々と足を踏み入れた禁断の空間。そのピンク色のドアも…………全てが閉まっていた。
なんでだよ!! 菊池、男じゃねえのかよ!
発狂しそうになる自分を抑え、俺はついに学校を脱出する決意をした。
早く……動けなくなる前に……一刻も早く。
学校を出て7分歩けば、そこにはコンビニという名のオアシスがある。
下駄箱が並ぶ昇降口に到着すれば、硝子の向こうに薄暗い校庭が広がっていた。慌てて見たスマホの時刻は、18時になろうとしている。
ヤベえ……校門が閉まる!
上履きを放り投げると、俺は必死に肛門を締め、閉まりそうな校門へ向かう。
肛門……閉まるな……違う。
校門は締めて肛門を……それも違う。
もう俺なに言ってんの……
朦朧とする意識の中、俺はただ前へ前へと足を繰り出し、『菊池』の残酷な呪いから逃れようとしていた。
◇◇◇
「あ~スッキリしたあ」
清らかな水音を聴きながら、手を洗う中年の男。
校舎の最奥にある、個室が一つしかないこの古い職員用のトイレは、用務員『菊池』が、マイトイレと呼ぶ程に愛用しているオアシスだった。
「やっぱし半額のネギトロ巻きがいけなかったかなあ。夕べ寿司の大食い配信なんか見ちまったから」
ハンカチで手を拭き、腕時計を見れば17時55分。
「あちゃ、急がねえと」
用務員室から校門の鍵を取り、足早に廊下を歩く。
……それにしても、あの時は辛かったなあ。ふざけた奴らに、トイレの個室を全部閉められちまって。
菊池は、かつて限界を迎えた一階の廊下を睨みつける。
────あの時の怨みは一生忘れねえぞ。
職員用の玄関から外へ出ると、菊池は薄暗い校庭を真っ直ぐ歩き、59分に校門へと辿り着く。
ふう、間に合った。
重い扉をガラガラと引く後ろで、もう一人の菊池が肛門を締めながらよろよろと近付いて来る。
あともう少しという所で校門は閉まり、無情な鍵がギュルリと掛けられた。
────菊池には、菊池が見えない。
菊地もね。