きっと私たちは幸せになれない
青い空。白い雲。木々は揺れ、風は踊り、海は宝石のように輝く。そして全てを包み込むように世界を照らしている光は、まるで神様が「おいで」と手を差し伸べているような、泣きたくなるほど優しい光だった。
森のずっと奥へ進むと急に開ける場所があり目の前には大きな海がある。
夢と同じ景色。
こうなるのは十一年前から決まっていたんだな。
今日に限ってあまりにも美しい景色が広がっている。
私の体がこの世を穢してしまうみたいじゃないか。
陸君とはあの日以降会っていない。
結局勇気が出なくて、お父さんともう一人のお母さんとも話せなかったし、私があの日見た希望は過去の絶望に飲み込まれ跡形もなくなった。
陸君からは何度もメールが届いたが、そのどれにも私は答えなかった。
嫉妬してしまったのだ。
前を向いた陸君は今までよりアクティブになって、色んなことに挑戦するようになった。だんだん悪夢を見る事も減ってきたらしい。
それに比べて私は、未だに雨にも当たれないし、話も出来ていないし、毎日同じ悪夢を見る。
酷いのは分かっている。
でももう、作り笑顔を浮かべることすら出来ないのだ。
陸君、これからどれほどの幸福が訪れても私はもう君のそばで一緒に笑うことは出来ないけれど、私が生きられなかった時間を君の心の中で生きられれば、それで十分です。
私のために泣かないでね。
私は君のために泣いてあげられないから。
神様、陸君を宜しくお願いします。
「一ノ瀬さん!!」
驚いて振り返るとそこには陸君がいた。
「なんでいるの?」
と私が言うと、陸君は息が上がるのを押さえ話し始めた。
「一緒に神社に行った時、君はこう言っていた。『自殺をするとその場所に囚われ続ける』と。初めて遊んだ日、君はこう言っていた。『友達なのは桜が咲くまでね』と。二人で海に落っこちた後、君はこう言っていた。『ずっとここに居たい』と。ここは桜と海が一番綺麗に見える場所。そして、君の一番好きな場所。これだけ情報があれば、簡単に分かるよ。一ノ瀬さんは、桜が満開に咲き誇った今、この海に身を投げてずっと囚われ続けようとしている。そうだよね?」
大正解だよ陸君。
と、言いたかった。
でも声を出そうとすると、何故か涙が出そうになる。
自分の感情を悟られまいと陸君に背を向けて美しい景色に目をやった。
すると陸君が近づいて来て、私の横に立つ。
「手押し相撲しよう」
そう言って手のひらを私に向けた。
「何言ってんの?落ちたら死ぬんだよ?」
「だって、落ちるのが醍醐味なんでしょ?」
陸君がじっと私を見つめてくる。
何でそんな目をするの。
全てを見透かしているような目。
死にたいと思いながらも恐怖の感情に支配されている事を見抜かれている気がする。
「君は弱いから、死ねないよ」
言われてもいない言葉が私の中に強引に入ってくる。
「うるさいんだよ!!もう帰ってよ!」
私は声を張り上げた。
「私は怖がっていない」と、「私は死ねる」とそう思いたかった。
それに、死ななきゃいけないんだ。
死んでからじゃなきゃ、それが死に値するほどの苦しみだったと気づいて貰えない。
だから私は死にたいんだ。
なのに、なのに、どうして涙が出てくるんだろう。
「一ノ瀬さんは一緒に神社に行った時、こうも言っていた。『もし君が明日死ぬなら、自殺であって欲しいよ』と。この言葉から、君は自殺が一番いい死に方だと思っていることが分かる。だから俺も、自殺するよ」
陸君の顔を見た。
目にはうっすらと涙が溜まり、悲しそうに笑っている。
「君のいない未来なんて自ら手放したいぐらいだ」
私は泣き崩れた。
子供みたいにわんわん声を上げて泣いた。
陸君はそんな私を包み込むように抱きしめた。
まるで「おいで」と手を差し伸べている神様から私を隠すように。
落ち着いてから二人で森の中の切り株に腰を下ろした。
木の隙間から空を眺める。
あの日森の中で自殺した子はこの景色を見ていたんだろうか。
私と同じように、怖かったのだろうか。
鳥が木から飛び立った。
大きく羽を広げて、空を泳ぐように飛んで行った。
「幸せそうで羨ましい」
鳥が見えなくなり、また下を向いた私に陸君が言った。
「幸せって思えなくても、不幸じゃないって思えればそれでいいんじゃないかな」
鳥のさえずりのように軽やかに私の耳に入ってくる。
私は、幸せではない。
でも、私は不幸だ。と声を大にして言えないのは何故なんだろう。
「陸君がいるからよ」
私は後ろを振り返った。
誰もいない。
でも確かに今、お母さんの声がした気がする。
車に轢き殺されたお母さん。
私のお母さんは、不幸だったんだろうか。
「ねえ陸君」
私はずっと抱いていた疑問を投げかけた。
「陸君は生きたいと思いながら死んでいくのが、怖くないの?」
陸君の顔を見れなくて、私は下を向いた。
陸君は雲が流れるようにそっと言葉を紡いだ。
「最後の最後まで生きたいと思うことは、苦しいかもしれない。死にたいと思って死ぬ方が、なんの未練もなく逝ける方が、良いかもしれない。それでも俺は、生きたいと思える事が素晴らしいと思う。死ではなく生に希望を抱けるのは当たり前の事じゃない。最後まで『生きたい』と思えるという事は、それほど価値のある人生を送れたという事だから、俺はそんな最後を迎えたいと思ってる」
雲が動いて太陽が顔を出す。
「一ノ瀬さんのお母さんなら、きっとそれに気づいていると思うよ」
私は空を見上げた。ずーっと先の方に目をやる。見えるはずのないものを必死に見る。
私は笑っていた。
そして私の頬を天気雨みたいに涙が通り過ぎて行った。
雨が降りそうだったので、陸君の家にお邪魔することになった。
二人で話していて、ふと窓の方に目をやると雨が降っている事に気がついた。
おもむろに窓に近づく。十一年の間避けていたものが、ガラスを挟んですぐそこにいる。
「当たってみる?」
陸君が私の手を取った。
その温もりがあれば、冷たい雨に耐えられるような気がして私はうんと頷いた。
陸君が窓を開け、繋いだ手をゆっくりと窓の外にやった。
自分の心臓の音が聞こえる。
手は震え、私はギュッと目を閉じた。
手に水滴が落ちる。
体がビクッとして、全身に力が入った。
でも、ふっと力が抜けていく。
暖かかったから。
私にとって雨は全てを凍りつかせるほど冷たく、矢のように鋭く、鉛のように重たいものだった。
でもこれは違う。
暖かくて、優しくて、全てを受け入れてくれるもののように感じた。
「涙みたい」
と私が言うと、陸君が
「きっと一ノ瀬さんのお母さんが泣いているんだよ。もちろん、嬉し涙」
と言った。
お母さんは空から見てくれているのだろうか。
久しぶりにお母さんの温もりに触れられたような気がして、私の目からも嬉し涙が降った。
とても、暖かかった。
後日、私たちは桜を見に行った。
ピンク色で染まる桜並木を二人並んで歩く。
どうして罪を犯した人間は死なず、被害に遭った人が死んでいくのだろうかとずっと考えてきた。
色んな罪が溢れかえっている世の中。治らない傷を背負っている人間の方が遥かに多いのだろう。
この世界はいつまでも変わらない。
でも、生き残った人間がこの世界を作っているんだ。
変われなくて当然なのかもしれない。
自由なはずなのに不自由で、世界は広いのに生きる社会は小さくて、みんな理想を語って死んでいく。
私はそんな世界で生きることが嫌だった。
それなのに、どうしてこんなに心が晴れているんだろう。
君のせいで少し希望を見出してしまうじゃないか。
陸君。
「私ね、人は桜みたいだと思う。満開に咲いているのもあればしおれているのもある。でもそれは元々しおれていたんじゃなくて私が満開になっているのを見逃していただけなんだ」
陸君が優しく「うん」と頷いてくれた。
「私ね、君のことは何も見逃したくないの。笑ってる時も泣いてる時も、楽しい時も苦しい時も私は何も見逃したくない。だから」
言葉が詰まる。目に涙が溜まる。そんな私を陸君は真っ直ぐに見つめ、ゆっくりでいいよと言うように微笑んでくれる。
もう、泣いちゃうじゃんか。
涙が頬を滑り、桜と一緒に地面に落ちていく。
陸君の汚れたスニーカーが目に入った。
私は人を信じるのが苦手で、未来を想像するのが怖くて、つい平凡な日々に手を伸ばしてしまう。
でも今目の前にいる人は、全力で私を追いかけて来てくれた人だから。
きっと、いや絶対に大丈夫。
「これからも一緒にいよう」
風が吹いて散った桜の花びらが空へと舞い上がる。
「もちろん、一緒にいるよ」
そう言って、陸君がにこっと笑った。
きっと私はこの優しい笑顔にこれからも救われ続けるのだろうと思う。
春、桜の雨が降った日、私の心が桃色に染まった。
私たちはこれからも何度も下を向くだろう。過去に囚われ続け、心の傷に苦しみ続けるだろう。
だから、きっと私たちは幸せになれない。
でも私の横には君がいるし、君の横には私がいるから、不幸にもならないはずだ。
この先どれだけ人に嘘をついても、自分には嘘をつかないで生きていきたい。
自分が何を思い、何を感じているのか。それはちゃんと知っておかなければいけないと思うのだ。
満開に咲く桜に手を伸ばす。
袖から覗く赤い線もこの美しい景色に馴染んでいた。
いつかこの腕に刻まれた傷たちを名誉の負傷だと思える日が来たら、それはたまらなく幸せである。
私はこの桜みたいに、沢山咲いているうちのたった一つに過ぎない。
それでも君と共に咲き誇れるのなら、私は厳しい冬でも希望を追いかけてしまうのだろう。
最終話です!
今まで読んで頂きありがとうございました!!




